伊藤整

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伊藤整(いとう せい、1905年1月16日-1969年11月15日)は、作家、詩人、英文学者、文藝評論家。

人物[編集]

北海道松前郡生まれ。本名読みひとし。1925年小樽高等商業学校を卒業。小林多喜二も同じ学校にいた。小樽中学校の英語教師になる。1926年、最初の詩集『雪明りの路』を自費出版する。この時数名の文学少女から手紙をもらい、関係を持ったのが左川ちかで、その後妻と結婚している。

1927年上京し、東京商科大学(一橋大学)入学。1932年最初の評論集『新心理主義文学』、最初の小説『生物祭』を刊行。1934年、ジョイスの『ユリシィズ』の翻訳を永松定らと完成し刊行する。川端康成を知り、『小説の研究』を代作する。37年『幽鬼の街』を発表し、作家的地位を固める。1940年『得能五郎の生活と意見』を連載。D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の削除版を翻訳刊行する。

1948年、評論集『小説の方法』を刊行。49年より『火の鳥』を連作形式で発表、刊行するとベストセラーになる。1950年『鳴海仙吉』を刊行。無削除版『チャタレイ夫人の恋人』を小山書店から刊行し、猥褻文書として小山久二郎とともに起訴される。

1953年、エッセイ『女性に関する十二章』を刊行し、ベストセラーとなる。『群像』に「日本文壇史」の連載を始める。伊藤整ブームが起こり、全集が刊行される。56年、自伝的小説『若い詩人の肖像』を刊行。長編小説『氾濫』を刊行。57年、チャタレイ裁判は最高裁で有罪となる。58年、東京工業大学教授となる(それまで助教授)。63年『日本文壇史』で菊池寛賞を受賞(連載は続いている)。64年、東工大を退官。1965年、高見順の死去を受けて日本近代文学館理事長となる。

1968年、日本芸術院会員となる。多くの小説を書いたが文学賞を授与したものはなかった。『日本文壇史』は、友人の瀬沼茂樹があとを続けて「漱石の死」まで書いた。