仏教伝来

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仏教伝来(ぶっきょうでんらい)はわが国に始めて仏教が公式ルートで伝わったことを意味する。「仏教公伝」ともいう。

仏教伝来の始め[編集]

日本書紀によれば552年元興寺縁起および『上宮聖徳法王帝説』では538年に、百済聖明王の使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典(経論)、幡蓋、仏具などを献上したのが仏教伝来の始めとされる[1]。『日本書紀』の仏教関連記事は信頼性が低いとされるので、538年の方が有力との見解が多い。百済に仏教が伝来したのは384年とされるので、150年ほど早い。

なお、上表文の「是法於二諸法中一最為二殊勝難レ入殉周公孔子尚不レ能レ知。」は後世の偽作とされている。なぜならこれは「金光明最勝王経如来寿量品の語「於諸経中・最為殊勝・難解難入・声聞独覚・所不能知・此経生無量無辺福徳果報・乃至成辮無上菩提」の句をほぼそのま採用しているが、最勝王経の中国での漢文翻訳は欽明天皇十三年より50年以上後のことである。この時点では知られていない。

公伝[編集]

仏教のはじまりを「仏教公伝」ということがあるのは、百済からに国家レベルで公式に伝達したという意味を含めている。公伝より前に私的な信仰としては伝来していた。たとえば司馬達等(司馬達止)が個人的に日本で仏教を広めていた。これを「私伝」という。難波津(大阪府)に着いた聖明王の使者は,大和川を船で上り、初瀬川河畔の海柘榴市に上陸した[2]

蘇我と物部の対立[編集]

『日本書紀』によるれば欽明天皇は「いままでにこのような教えは聞いたことがない」とし、大臣たちに仏教を受け入れるかどうか尋ねた。蘇我稲目は「西の諸国はみな礼拝しております。わが国だけ礼拝しないわけにはいきまません」と答えたという。物部尾輿は「わが朝廷が天下を治める根源は、天地の神々を春夏秋冬に祭祀することにある。外国の神を礼拝されるならば、わが国の神々の怒りを招く」と反対したとされる。 いわゆる蘇我と物部の対立として描かれ、587年に蘇我馬子らが物部守屋を滅亡させる遠因になったとするが、そのような蘇我と物部の路線対立はなかったとする見解もある。

参考文献[編集]

  1. 本書紀の、欽明天皇十三年壬申「冬十月百済聖明王が西部姫氏達率怒剛斯致契等を遣し、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干を献じ」
  2. 奈良県桜井市の金屋河川敷公園に「佛教伝来之地」の碑がある。