一刀斎忠臣蔵異聞

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一刀斎忠臣蔵異聞
著者五味康祐
発行日1958年
発行元勁文社文藝春秋社
ジャンル時代小説
日本国旗.png日本
言語日本語

一刀斎忠臣蔵異聞』(いっとうさい ちゅうしんぐらいぶん)は、1958年に発表された五味康祐の短編時代小説

物語の忠臣蔵とは全く異なる史実を、一刀斎(五味)が史料をもとに綴る半小説・半評論の作品。

一刀斎の語る史実[編集]

文末の()内は五味による史料。

吉良の最期[編集]

吉良は赤穂義士(武林隆重)と斬り合って死亡した。向こう傷が複数あり、刀(二尺三寸)を構えたままの首のない遺体で検死を受けた。(米沢藩『塩井家覚書』)

近松の不戦[編集]

近松行重の刀は錆びていて、鞘から抜けなかった。(細川家「堀内伝右衛門覚書」)

扇子腹の堀部[編集]

堀部金丸は「老齢ゆえ皺腹を切るのは遠慮する」と延べ、扇子で腹を切る真似をして介錯された。(『赤城士話』)

浅野の吝嗇と不敬[編集]

畏くも東山天皇が派遣あそばされた勅使の饗応費用1200両を、浅野は700両に削減しようとした[1]

勤皇の吉良と佐幕の浅野[編集]

後西上皇は直筆の「うつし植て 軒端の松の 千とせをも おなしこころの 友とち吉良む」という和歌を吉良に下賜あそばされている。朝儀復興と朝廷権威の回復政策を目指す霊元天皇の御即位の賀使としても参内。東山天皇の御代には御料(皇室領)が1万石から3万石に増加している。

一方、浅野は江戸火消しとして幕府の信頼を得ていたばかりか、数十匹のお犬様を赤穂城で世話していた。戸田氏定も「内匠頭は日頃から幕府を重んじていた」とする内容の書を月岡治右衛門と多川九左衛門に渡している。(大垣藩文書「大石宛采女正書状」)

一刀斎(五味)の結論は「吉良邸討ち入りとは佐幕派が勤皇派を打倒したイデオロギー的勝利」である。赤穂義士の討ち入りが失敗(返り討ち・現場で捕縛など)していたら討幕・王政復古が早まったと推察している。

書誌情報[編集]

関連項目[編集]

  • 朝鮮通信使 - 浅野長矩が饗応役を無事やり遂げている。

脚注[編集]

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  1. 水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄・神崎則休・富森正因・萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』