キルステン・フラグスタート
キルステン・モルフリード・フラグスタート(Kirsten Målfrid Flagstad, 1895年7月12日 - 1962年12月7日)[1]は、ノルウェーのソプラノ歌手。[2][3][4]
ハーマルの祖母の家で生まれる。父ミヒャエルは指揮者、母マリーはピアノ奏者だった。生まれた翌年には家族でクリスチャニアに移住。1901年からマルティン・ウルシンにピアノを師事。1911年からエレン・シュッテ・ヤコブセンに声楽を学ぶ。1913年からバス・バリトン歌手のアルベルト・ヴェストヴァンクの下で学び、その年のうちにクリスチャニア国立歌劇場に於いてオイゲン・ダルベールの《低地》のヌリ役でデビューを果たした。その後、ロベール・プランケットの《コルヌヴィルの鐘》やヴァルデマール・トラーネの《山の冒険》等に出演していたが、1916年にストックホルムでギリス・ブラットに声楽の指導を受ける。1918年にクリスチャニアのアウラ大学でコンサート・デビューを果たしたが、1919年に実業家のシグルド・ホールと結婚[5]して一児を儲ける。その後、クリスチャニアを活動の本拠とし、1929年にはオスロ国立歌劇場でリヒャルト・ヴァーグナーの《ローエングリン》の上演に於いてエルザ役を歌って成功を収める。1930年に実業家のヘンリー・ヨハンセンと結婚して歌手活動を一時中断。1931年からヨーテボリとオスロでオペラ歌手として活動を再開し、1933年にはヴィニフレート・ヴァーグナーのオーディションを受けてバイロイト音楽祭に出演することとなった。1935年にはメトロポリタン歌劇場に出演し、以後メトロポリタン歌劇場のヴァーグナー作品の女性歌手の役では欠かせない存在となった。1936年にはロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場に初出演し、欧米各地の演奏旅行でヴァーグナー作品の名解釈者としての名声を確立。1941年にナチス・ドイツに加担する夫ヘンリーを説得するためにノルウェーに帰国し、戦争中はナチス・ドイツの息のかかった人達の前では歌わないようにした為、活動は低迷した。戦後、夫の逮捕により、ノルウェーのパスポートを一時的に没収されている。夫は1946年に病没し、フラグスタートは無罪となり、新造されたパスポートを与えられることとなった。1947年にはヨーロッパ・ツアーで歌手として再起し、アメリカでは悪臭弾を投げつけられるなどの被害を受けたものの、オペラ歌手としての名誉を回復することに成功した。また、リヒャルト・シュトラウスが亡くなる直前に《四つの最後の歌》を託したことで、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共演してその曲を初演している。1952年にクリストフ・ヴィリバルト・グルックの《アルチェステ》への出演を最後にメトロポリタン歌劇場から引退し、翌年オスロのデッドナイ劇場におけるヘンリー・パーセルの《ディドーとエネアス》でオペラ歌手としてのステージ活動に終止符を打った。その後は、コンサートや放送で折に触れて歌声を披露していたが、次第に病気がちになり、1958年に就任したノルウェー国立歌劇場総監督の職を1960年に辞任している。
オスロにて死去。
脚注[編集]
- ↑ Litoff, Judy Barrett (編集), Giorgio、McDonnell, Judith 『European Immigrant Women in the United States: A Biographical Dictionary』 Garland Publishinng、1993年、91-92頁。ISBN 9780671870423。
- ↑ “Kirsten Flagstad - Hollywood Walk of Fame”. 2021年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日確認。
- ↑ アーカイブ 2021年1月17日 - ウェイバックマシン
- ↑ ““Kirsten Flagstad, Triumph and Tragedy””. 2021年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日確認。
- ↑ 1927年離婚。(アーカイブ 2020年9月21日 - ウェイバックマシン)