アントン・クエルティ

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アントン・クエルティ(Anton Kuerti, 1938年7月21日[1] - )は、オーストリア出身のピアノ奏者。本名はアントン・エミル・クエルティ(Anton Emil Kuerti)[2]

ウィーン出身。6歳の時に家族でアメリカに移住し、ボストンでエドワード・ゴールドマンにピアノを師事。9歳でボストン・ポップスの演奏会でエドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲を弾いてデビュー。1948年から1952年までマサチューセッツ州ケンブリッジのロンギー音楽学校でアーウィン・ボドキーとグレゴリー・タッカーにピアノ、アーサー・シェパードに作曲を師事。1952年から翌年までピーボディ音楽院でエルネー・バローグにピアノ、ヘンリー・カウエルに作曲を師事。1953年から1955年までアーサー・レッサーとバール・ルービンスタインにピアノ、マーセル・ディックに作曲を学ぶ。1955年から1958年までカーティス音楽院でルドルフ・ゼルキンとミェチスワフ・ホルショフスキにピアノを師事。ロンギー音楽学校在学中の1950年にはジンブラー・シンフォニエッタ、1951年にはMIT交響楽団と共演し、1953年にはボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館やワシントンD.C.のフィリップス・コレクションでのリサイタルを成功させている。1953年から1956年までマールボロ音楽院に参加。1957年にはフィラデルフィア管弦楽団からユース賞を贈られ、レーヴェントリット国際音楽コンクールで優勝してプロフェッショナルとして活動するようになった。1965年から1968年までトロント大学のレジデント・ピアニストとなり、1968年から1972年まで同大学の助教授、1989年までアーティスト・イン・レジデンスを務めた。作曲活動は音楽修業時代から行っていたが、1971年から本格化し、交響曲《エポメオ》やヴァイオリン・ソナタ等の作品を発表している。

脚注[編集]