高村光太郎

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高村光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日‐1956年4月2日)は、日本の詩人・彫刻家。

人物[編集]

東京市下谷区に、木彫家・高村光雲の長男として生まれる。東京美術学校彫刻科に学ぶ。1902年卒業。1906年渡米して彫刻を学ぶ。07年渡英、08年パリに渡り、09年帰国。1910年吉原の娼妓若太夫との恋愛があるが、木村荘太に奪われ、1911年、詩「失われたモナ・リザ」を書いて『スバル』に発表、以後多くの詩を書く。この年、長沼智恵子を知る。1912年、駒込林町にアトリエを作る。

1914年、最初の詩集『道程』を自費出版、長沼智恵子と結婚する。『ロダンの言葉』などのフランス語からの翻訳を出すが、生活は窮乏し、1929年長沼家が破産し、智恵子が精神を病み始める。父光雲が没する。35年、智恵子を南品川のゼームス坂病院に入院させる。38年、智恵子が結核のため死去。41年、詩集『智恵子抄』を刊行。対米英蘭の戦争が勃発し、光太郎は強く戦争協力の姿勢を示し、42年、詩集『大いなる日に』を刊行、日本文学報国会の詩部会会長となる。45年4月、空襲によりアトリエ焼失、岩手県の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開する。

敗戦を迎え、農耕自炊の生活を始める。1947年、詩群「暗愚小伝」を発表。50年、詩集『典型』を刊行し、読売文学賞を受賞。53年、青森県十和田湖畔に、智恵子の面影を残す女性裸像を建てる。55年、岩波文庫から自選『高村光太郎詩集』を刊行。73歳で没。