警察庁長官狙撃事件

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警察庁長官狙撃事件(けいさつちょうちょうかんそげきじけん)とは、1995年3月30日に國松孝次警察庁長官が狙撃された事件。別名国松長官狙撃事件。警察庁トップが撃たれるという事件でありながら、犯人は検挙できずに捜査は難航。2010年3月に殺人未遂罪の公訴時効を迎えた。

事件内容[編集]

1995年3月30日午前8時30分頃に東京都荒川区南千住にある自宅マンションから國松孝次警察庁長官が出たところを拳銃で4発発砲された[1]。そのうち3発が命中して國松長官は意識を失う。一命は取り留めたものの全治1年6ヵ月の重傷を負ってしまう。狙撃した男は自転車で逃走。現場には何故か朝鮮人民軍のバッジ、大韓民国の10ウォン硬貨が見つかっている。

捜査経過[編集]

事件発生から1年が過ぎた1996年5月に当時オウム真理教の信者の警視庁巡査長Aが犯行を自白。神田川に狙撃に使った銃を捨てたと供述した。ところが、神田川を捜索しても銃は発見されず、出てくるのはごみのみだった。他にも供述の矛盾点が出てきて、立件を見送る。1996年11月に巡査長は懲戒免職にしたものの、狙撃事件の犯人と示すようなものは出てこなかったため、地方公務員法違反容疑で書類送検するに留まった。

また、この巡査長の一連の供述は、内部告発により報道機関が1996年10月に報道するまで警察庁にも報告されていなかった。これにより警視庁は公安部長更迭と警視総監辞職という事態に発展する。これらの経緯は、警視庁の縄張り争いによって生まれたといわれ、初動捜査におけるミスとなってしまう。

2004年7月7日、元巡査長A、教団防衛庁長官、教団建設省幹部を殺人未遂容疑、石川公一・教団法皇官房次官を爆発物取締罰則違反容疑で逮捕した。現場の10ウォン硬貨と信者のDNAが一致したためとされたが、7月28日に処分保留、9月17日に不起訴となった。

その後も捜査は迷走して2010年3月30日午前0時に公訴時効を迎えた。公訴時効を迎えたことで警視庁公安部が記者会見を開いて、この事件がオウム真理教の信者による組織的な犯行であると述べた。しかし、公訴時効を迎えた事件でオウム真理教の犯行と断定できる根拠が曖昧で批判が続出した。

犯行説[編集]

この事件においては様々な犯行説が囁かれている。警察内部においてでさえ、公安部がオウム犯行説を主張し、刑事部が強盗殺人未遂犯を主張して見解が分かれている。

主な犯行説だけでも

  • オウム犯行説
  • 強盗殺人未遂犯説
  • 北朝鮮の工作員説
  • 暴力団関係者説
  • 過激派犯行説

がある。現在の所はどれも決め手には欠けている。

オウム犯行説[編集]

オウム犯行説は主に公安部が主張している。しかし、この説には次の疑問点が挙げられている。

  • サリン事件などの関与を認めてきたオウム教団幹部たちが長官狙撃事件だけは一切の関与を否定。死刑判決を受けるような事件を認めてきたにも関わらずこの事件だけ否定する不自然さ。

警察不祥事[編集]

この事件では、警視庁自らも事件の反省の一つとして極秘捜査が迷宮入りさせた要因の一つに挙げた。内部告発により発覚するまで警視庁が巡査長が自白してきたことを隠し、一部の捜査員のみで尋問をしたことで裏付け捜査が遅れたとされる。警視庁の内部の闇が表面化した事件となった。

賠償問題[編集]

宗教団体アレフは、時効後に警視庁がオウム真理教によるテロと断定したことについて、名誉棄損だとして東京都と池田克彦元警視総監を提訴し、5千万円の損害賠償を求めた。2013年1月15日に東京地裁石井浩裁判長)は、名誉毀損の成立を認め、アレフへ100万円の賠償と謝罪文交付を東京都に言い渡した。池田元警視総監への提訴は棄却した。判決では、東京都のオウム真理教とアレフは別団体だとする主張に対して「実質的に同一の団体だと一般的に認識されているのは明らか」とし、また、「無罪推定の原則に反するだけでなく、検察官が起訴した内容について公正中立な裁判所が判断を下すという日本の刑事司法の根底をも揺るがす」と述べ、警視庁の対応を批判した。

脚注[編集]

  1. 銃身の長いコルト・パイソンハンターだった可能性、および殺傷能力の高い弾頭だった可能性が指摘されている。

参考文献[編集]

  • 別冊宝島編集 『戦後未解決事件史』 宝島社〈宝島社文庫〉、2006年、ISBN 4-7966-5426-7。