破斯清通
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破斯 清通 (はしの きよみち[1]、生没年不詳)は、奈良時代の役人。765年の木簡に存在が記されており、ペルシア人である可能性が指摘されている。
概要[編集]
- 出土木簡に記載された人物である。
- 木簡は、1966年に平城宮の東南にあたる式部省跡から出土したもの。
- 2016年に、奈良文化財研究所による木簡の赤外線撮影で、「破斯清通」という人物の存在が発覚した。
- 木簡の記載は以下の通り。「大学寮解 申宿直官人事 員外大属 破斯清通 天平神護元年」[2]
木簡の記載内容について[編集]
- 大学寮は儒教や法学などを扱う教育機関。官僚を養成した。
- 「解」という言葉から下級官司から上級官司への報告であることがわかる。
- 宛先は、式部省であると思われる。大学寮の上級官司であり、発見場所にあたるため。
- 「申宿直官人事」とあるとおり、大学寮の宿直担当者に関する報告である。
- 「員外」とは、令の規定する定員以外の官人であること。
- 「大属」は、大学寮の四等官制の最下級にあたる「属(さかん)」のうち、上位の者を意味する。
- 「破斯」=「波斯」であると思われる[3]。これは中国語でペルシアを意味する。
天平のペルシア人役人?[編集]
- 「破斯」という氏あるいは名字から、読売新聞はペルシア人役人が奈良朝に仕えていたと報じている[2]。
- 実際、ペルシア(波斯)と古代日本はまったく無関係ではない。例えば、
- 『日本書紀』・『続日本記』は、古墳時代から奈良時代にかけてペルシア人が来日したことを伝えている。
- 554年に医師の「王有陵陀」と採薬師の「潘量豊丁有陀」が百済から来日している。中世ペルシャ語学者の京都大学名誉教授、伊藤義教によれば、この二人の名前は中世ペルシア語の音写であり、ペルシア系の人物だった可能性が高い。
- 654年には「都貨羅人」である「乾豆波斯達阿」ら男女5人が日向に漂着している。
- また、736年には「波斯人」の「李密翳」が復命した遣唐使とともに来日している。
- ご存知、正倉院にはペルシアからの輸入品がたくさんある。
- 『日本書紀』・『続日本記』は、古墳時代から奈良時代にかけてペルシア人が来日したことを伝えている。
- それと、渡来系氏族が先祖の出身地名を「氏」として称することは、割りとよくある。「東漢氏」とか「秦氏」とか「高麗氏」とか。
- 同時代の中国では、胡人(ペルシア人・ソグド人)がしばしば官僚として用いられ、高い能力を発揮した。
- こうしたことから、奈良時代の日本にペルシア人の役人がいた可能性は十分にあるといえるだろう。
- しかし、現状、直接的な根拠は「破斯」という二文字しかない。ペルシア人だったと断定はできないことに注意する必要がある。
余談[編集]
- 「清通」という一見すると日本風の名前は、736年来日の「李密翳」を音写したものかもしれない。
- 赤外線撮影は木簡の調査の際にしばしば用いられる。一般に、木簡の表面に書かれた墨文字は、土中の水分によって木の繊維に浸透して見えなくなってしまう。しかし、墨文字(炭素)には赤外線を通過させるという性質があるため、赤外線撮影をすれば読めるようになることもあるのである[4]。
- 「波斯」と古代日本の関係については、杉田英明『日本人の中東発見』(東京大学出版会、1995年)の第1章「波斯と大食」に概説されているらしい。絶版なので図書館に借りに行こう。
- 「波斯猫」というと、ペルシア猫のことである。夏目漱石の小説にも出てくる用法。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
平城宮資料館「地下の正倉院展 式部省木簡の世界―役人の勤務評価と昇進―」 - 関連する企画展が行われるとのこと。