溝口健二

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溝口健二(みぞぐちけんじ、英:Kenji Mizoguchi、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は映画監督・脚本家である。日本映画の三大巨匠の一人と言われる。世界の映画作家に影響を与えた。リアリティによる演出、ワンシーン、ワンショットの徹底した長回、クローズアップを避ける撮影手法が特徴である。作家マーク・ル・ファヌによれば、溝口の映画には「並外れた力強さと純粋さ」があると評する[1]

作品『雨月物語』(1953)は、国際的な注目を集め、英国サイトアンドサウンド誌で1962年と1972年に世界映画トップ10にランクインした[2]

経歴[編集]

  • 1898年(明治31年)5月16日、東京本郷に生まれる。父溝口善太郎と母・まさの3人の子の長男として生まれる。
  • 1905年(明治38年)、田川学校に入学。
  • 1907年(明治40年)6月15日に開校した石浜小学校[3]に入学。
  • 1911年、溝口家は困窮し、健二を小学校に通わせる事ができなくなり、盛岡の親戚に預け、盛岡で小学校を卒業した。
  • 1912年(大正元年)、東京に戻るが、リウマチにより1年間床に伏す。
  • 1913年(大正2年)、姉の支援の下、浴衣の図案屋に奉公し、模様絵師の徒弟となる。
  • 1915年、母親が死亡。
  • 1916年(大正5年)、葵橋洋画研究所に入り洋画の基礎を学ぶ。
  • 1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部のデザイナーとして就職。
  • 1919年(大正8年)、日活向島撮影所に映画俳優として入るが、若山治に助手になれと言われる。
  • 1923年(大正12年)2月、『愛に甦る日』で24歳で監督デビュー。助監督の最末端から、二年で監督に昇格した。
  • 1925年(大正14年)5月、同棲していた一条百合子に背中を剃刀で切られる。
  • 1927年(昭和2年)、嵯峨千枝子と結婚。
  • 1929年(昭和4年)、『東京行進曲』で社会への批判を含んだ作品を作るが失敗作となる。
  • 1932年(昭和7年)、日活を退職し新興キネマに入社。
  • 1933年(昭和8年)、『瀧の白糸』(新興キネマ)はサイレント映画時代の傑作となる。
  • 1934年(昭和9年)9月、永田雅一とともに第一映画社を創立する。
  • 1936年(昭和11年)、『浪華悲歌』は芸術映画のレベルを達成しトーキー初期の傑作となる。第13回(1936年度)キネマ旬報ベスト・テン第三位を獲得。『祇園の姉妹』は第13回(1936年度)キネマ旬報ベスト・テン第一位。戦前の代表作である。リアリズム映画を確立した時期である。革新的な技法として遠景撮影、広角レンズ使用による硬い人物像、ワンシーンワンカットを生み出した。
  • 1937年(昭和12年)、日本映画監督協会理事長に就任(2代目)。
  • 1939年(昭和14年)、「芸道三部作」の第1作『残菊物語』。長回しの演出スタイルが完成される。
  • 1941年(昭和16年)、『元禄忠臣蔵』前後編からスランプに陥る。
  • 1948年(昭和23年)、『夜の女たち』により復調のきざし。
  • 1952年(昭和27年)、『好色一代女』はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞。世界的に注目され、スランプを脱する。
  • 1953年(昭和28年)、『雨月物語』はヴェネツィア国際映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得。名作の誉れ高い傑作となる。同年の『祇園囃子』も秀作である。
  • 1954年(昭和29年)、『山椒大夫』は同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞し、3年連続受賞となった。同年の『近松物語』も世界的に評価が高い。
  • 1956年(昭和31年)、『赤線地帯』が遺作となる。
  • 1956年(昭和31年)、8月24日午前1時55分、白血病により58歳で死去。没後、勲四等瑞宝章を受賞。墓は東京都大田区の永寿院。戒名は「常光院殿映徳日建居士」という。

世界的影響[編集]

  • ジャック・リヴェット『修道女』は、『西鶴一代女』の影響を受けている。
  • ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』と『気狂いピエロ』は溝口の『山椒大夫』の影響がみられる。ゴダールは「好きな監督を3人選ぶと?」の問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ!」と答えるほど心酔している。
  • ビクトル・エリセ監督が最初に溝口の映画『近松物語』『雨月物語』等を見たのは兵役中の1963年であった。驚愕と強烈な印象を受け、立ち上がれなかったという。これまでにないものを見てしまったと感じた[4]
  • 『山椒大夫』124分とパンフに書かれているのをみて、とても門限に間に合わない、今までみた数本はどれも素晴らしいが、傑作が続くこともないかもしれない、途中で出ればよいと思い見始めたらあまりにすばらしくて最後まで観てしまい、兵役の門限破りと決められている罰としてじゃがいもむきをしたという[4]
  • 溝口の映画は日本を越えて世界的な領域に到達していることはすぐに分かるが、普通の人々はそこまで理解できないとビクトル・エリセ監督は語る[4]

シンポジウム[編集]

  • 2018年12月22日、『溝口健二生誕120年記念国際シンポジウム「近松物語における伝統と革新」』が開催された[5]
  • 会場:京都文化博物館
    • 11:00-11:05 開会の挨拶 木下千花(京都大学)
    • 11:05-12:00 基調講演「純粋な不義密通–溝口による近松の翻案」(The Pure Adultery of The Crucified Lovers: Mizoguchi’s Adaptation of Chikamatsu) ダドリー・アンドリュー(イェール大学)(言語:英語、日本語通訳あり)
    • 13:00-14:42 『近松物語』(4Kデジタル修復版)上映 『近松物語』[4Kデジタル修復版] 1954年大映京都作品(モノクロ・102分)
    • 14:50-15:50 対談「『近松物語』の音響をめぐって」長門洋平(京都精華大学)、白井史人(日本学術振興会/京都大学)
    • 16:00-17:30 パネル「『近松物語』へのアプローチ—文化と資料」
      • 藤原学(京都大学)「『近松物語』大経師の家の建築表現」
      • 木下千花(京都大学)「脚本とは何か」
      • 佐相勉(溝口研究者)「「二つの流れのコンデンス」と『近松物語』」
    • 17:40-19:00 共同討議

参考文献[編集]

  1. Mark Le Fanu(2005):"Mizoguchi and Japan" British Film Institute
  2. The Sight & Sound Top Ten Poll: 1972 Critics’ poll
  3. 石浜小学校
  4. a b c 蓮實重彦、山根貞男(2007)『国際シンポジウム溝口健二―没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』朝日新聞社
  5. 溝口健二生誕120年記念国際シンポジウム