海野義雄

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海野義雄(うんのよしお、1936年2月14日 - )は世界的なバイオリニスト東京音楽大学客員教授[1]。(社)日本演奏連盟理事。元東京音楽大学学長。妻は元東京都交響楽団首席チェリスト海野ユキ恵。子にチェリストの海野幹雄ヨーゼフ・シゲティミシェル・シュヴァルベシュタフォンハーゲン鷲見三郎兎束龍夫に師事。28ヶ国90都市で演奏活動を行う。今までロンドン響、モスクワ国立響など著名なオーケストラと共演。

経歴[編集]

  • 1936年2月14日、東京生まれ。ヴァイオリニストの父「海野次郎」(元N響ヴァイオリニスト)とピアニストの母の音楽一家[2]
  • 青山学院高等部卒業。
  • 1954年、東京芸術大学に入学。シュタフォンハーゲン鷲見三郎兎束龍夫に師事。
  • 1957年、在学中にアカデミー弦楽四重奏団を主宰する。海野、川上久雄、白柳昇二、斎藤鶴吉が参加。
  • 1958年、東京芸術大学音楽学部 弦楽科ヴァイオリン専攻を首席で卒業する[3]。卒業と同時にNHK交響楽団に入団する。同年12月、ヴィルヘルム・ロイブナー指揮のNHK交響楽団とチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を共演。
  • 1959年、NHK交響楽団のコンサートマスターとなる(23歳)。
  • 1962年、小澤征爾ボイコット事件に際し「あいつは耳がわるい」と小澤を批判した(N響事件)。
  • 1963年、NHK交響楽団から派遣されドイツ・ベルリンに留学。ミシェル・シュヴァルベに師事。ヨーゼフ・シゲティに認められ、師事する。
  • 1967年、ウィーン楽友協会大ホールでソリストとしてデビューした。
  • 1968年、ドイツ・グラモフォン・レコードで「海野義雄 メンデルスゾーン・チャイコフスキーバイオリン協奏曲」を発表し、日本人初の海外録音となった。空前のベストセラーとなる。同年、モスクワ音楽院ボリショイホールに招かれてメンデルスゾーン・バイオリン協奏曲の公演を行い、絶賛された。ロシアタス通信は世界的に報道。
  • 1970年、「プラハの春」音楽祭に招かれ、日本人初出演。東京芸術大学の非常勤講師となる。「Yoshio Unno U.S.デビュー」がアメリカとヨーロッパで発売される。
  • 1972年、東京芸術大学助教授に就任。
  • 1975年、史上最年少の39歳で東京芸術大学教授に就任した。
  • 1980年、ベルギー王室の招きで、エリザベート国際コンクールの審査員を務める。
  • 1981年12月8日、東京芸術大学の楽器購入をめぐる受託収賄罪ならびに有印私文書偽造罪の容疑で東京地方検察庁特捜部に逮捕された[4]
  • 1985年4月8日、東京地方裁判所で懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決となり、同日、東京芸術大学から懲戒免職処分となった[5]
  • 1982年、「パガニーニ生誕200年記念国際コンクール」でメニューイン、コーガン、シュナイダーハンと審査員を務めた。
  • 1986年、一家でパリ郊外に移住。演奏活動を再開した。ネヴィル・マリナー指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団と共演。
  • 1989年、執行猶予が切れ帰国。日本での演奏活動を再開。のち、洗足学園大学教授に就任。
  • 1991年、「海野義雄東京ヴィルトゥオーゾ」を結成し、同年9月、サントリーホールでデビュー。
  • 1995年、日本音楽コンクール審査会運営委員。
  • 2001年、「海野義雄東京ヴィルトゥオーゾ」設立10周年記念公演を東京オペラシティコンサートホールで開催。
  • 2005年、東京音楽大学学長(2011年まで)

注・リファレンス[編集]

  1. 教員紹介(2018年度)東京音楽大学、2019年4月11日閲覧
  2. 日外アソシエーツ(2012)『日本の演奏家』日外アソシエーツ
  3. 海野義雄
  4. 第095回国会 決算委員会 第1号」参議院、1981年12月16日
  5. 「東京芸術大学─名器ガダニーニ「ニセ鑑定書」の真贋」『新潮45』2006年11月号、新潮社