明治地図密売事件

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明治地図密売事件(めいじちずみつばいじけん)は1881年(明治14年)に国外交官へ日本地図を密売しようとしたとされる事件である。 「地図密売事件」「黄遵憲事件」とも呼ばれるが、他の地図密売事件と区別するため、時代を特定する「明治」を付けている。

経緯[編集]

1881年(明治14)年1月29日午前7時、神田小川町63番地に住む木村信卿少佐が突然逮捕された。続いて渋江信夫木下孟寛若林平三郎小林安信が拘引された。神田錦町の銅板職人青野寸平が取り調べを受けた。

1881年(明治14年)2月10日の朝野新聞によれば、「支那(当時)公使館の黄遵憲が帰国後に「日本国誌」を帰国後に発刊したい。巻頭に日本全図を挿入したいと木村信卿に依頼した。木村は一旦は断ったが、断りきれず地図作製を部下の渋江信夫に依頼した。その他の職員が地図作製に当っていた。渋江は見積書をつくり描写料75円、彫刻代85円の計160円とし12月29日、木村は黄遵憲と細部にわたる契約書を交わし、内金として48円を受け取った。 このこと聞き及んだ陸軍裁判所官吏(のちの憲兵隊)は秘密の地図を漏らすとの疑いによって木村信卿らを逮捕した。しかし朝野新聞は世間普通の地図によってつくったので、重い罪にはなるまいとのことであった。」と、楽観的な見通しを書いていた。

しかし製図御用掛、大島宗美(当時27歳)は出張先、神奈川県橘樹郡二子村の旅籠「亀屋」でにわかに発狂して切腹自殺をした。4月19日、参謀本部から地図課へ「参謀本部地圖課服務概則」が達せられ、これにより公務の漏洩は禁止され、地図の厳重な取り扱い、課長の部下監視などが定められた。

1881年(明治14年)5月3日、信卿非職前の部下であった軍参謀本部地図課八等出仕川上冬崖は、参謀局で西洋画の指導をしていたが、政府の権力に抗しきれず熱海で自殺した。つづいて5月18日、同じく地図課十一等出仕渋江信夫(横山大観の叔父)は獄中で首をくくった。フランス派系の参謀本部会計係服部道門が本部2階から飛び下り自殺を図った。

事件は地図完成以前に発覚したため未遂に終わっている。同年8月31日、陸軍裁判長堀尾晴義によって木村信卿閉門半年後停官の判決がなされた。

事件の発端[編集]

木村信卿]]少佐は、以前から清国語のことで付き合いのあった公使館職員からの仲介により、清国公使何如璋および黄遵憲から日本地図の作製を依頼された。そのとき黄遵憲から依頼されたのは、単に黄の著書「日本国志」に挿入するための日本全図であったといわれる。

墓所[編集]

渋江信夫の墓地は谷中霊園乙5号5側で最後の将軍、徳川慶喜の墓所の近くである。

事件の背景[編集]

外国から移入された三つの様式フランス式、ドイツ式、イギリス式、この3つの方式が事件に関係する。幕府が幕末に開いた蛮書調所依頼の系統がフランス式、明治になり文官系の内務省がイギリス式(明治水準点を設定)を採用、そして武官系の参謀本部が後にドイツ式を推進する。陸軍少佐・木村信卿はフランス学を修めた大学南校の秀才であり、山県有朋が参謀局長として創設した参謀局(参謀本部の前身)のスタッフの1名であった。 木村信卿が勢力争いに巻き込まれたとの説がある。山県・桂体制による参謀本部の改革は、ドイツ視察から帰国した桂太郎を中心にして、すでに必要でなくなったフランス派を一掃するために事件を起こしたとも解釈できる。明治新政府の中で、木村信卿は旧幕府側の人間であった(フランス派)。

事件後の動き[編集]

地図作製の三つの流れは二つに集約され、文官系はイギリス式、武官系はドイツ式となった。1883年(明治16年)に田坂大尉がドイツから帰朝し、参謀本部は一挙にドイツ式を採用した。さらに翌1884年(明治17年)、太政官達により地図作製のための測量をすべて軍部に一本化した。このようなドイツ式に統一するために旧幕系のフランス式人脈を排除するための策略であったとすると、分かりやすい。しかしながら終戦時に軍の機密資料はすべて焼かれた為、真相はやぶの中のままである。