日本国紀ウィキペディア剽窃疑惑

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本記事『日本国紀ウィキペディア剽窃疑惑』(にほんこっきウィキペディアひょうせつぎわく)では、百田尚樹が著書『日本国紀』文中で日本語版ウィキペディアなどを剽窃した事象について記述する。

概要[編集]

2018年11月、百田は日本の歴史を書いた『日本国紀』を刊行し、過去の百田の著作の例に漏れず右翼・左翼を問わず様々な意見を呼ぶ話題の書となった。そんな中、刊行から1ヶ月も経たないうちにWikipediaの記述や大阪新聞の記事、保守系の個人ブログの記事などからの剽窃が多いとして読者の間で話題になり、11月16日には「Buzzap!」がこの件を取り上げた[1]

更には、百田自身がこれを認めた。しかし「原稿用紙に直すと1~2枚程度の量だ。本はその800倍ある」と正当化[2]

剽窃された箇所[編集]

Wikipediaからの剽窃箇所[編集]

日本の国旗[編集]

日輪のマークは天下統一の象徴であり、源平合戦の折も、平氏は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を使用した。それ以降、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったといわれている(『日本国紀』p.257)
日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。(Wikipedia:日本の国旗[3]

北条早雲[編集]

前述の北条早雲は、無名の素浪人から大名になった下克上の典型的な存在といわれていたが、近年の研究では、室町幕府の政所(訴訟を司る職)の執事であった伊勢氏の出であったらしいともいわれている(『日本国紀』p.136)
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。

(Wikipedia:北条早雲[4]

文禄・慶長の役[編集]

『明史』(中略)には「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来七年,明は十万の将兵を喪失し,百万の兵糧を浪費するも,明と朝鮮に勝算はなく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した」と書かれている(『日本国紀』p.158)
『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する。

(Wikipedia:文禄・慶長の役[5]

明史の記述は「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」であり、Wikipediaの編集者の意訳を百田が継承している。

柴五郎[編集]

『日本国紀』pp. 311-312 Wikipedia:柴五郎[6]
柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くしており、さらには間者(スパイ)を駆使した情報網を築き、篭城軍の実質的な司令官として活躍した。 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。
「義和団の乱」の後、ロンドン・タイムス紙は、社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したが、その功績は柴によるところが大きい。 ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。
柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。 事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。

 

大阪新聞からの剽窃箇所[編集]

『日本国紀』p. 53 大阪新聞[7]
仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波の高津宮から遠くを見てこう言った。 仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうなら、地方は一層ひどいことだろう」 「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」
そして「向こう三年、税を免ず」いう詔を発した。それ以降、仁徳天皇は衣を新調せず、宮垣が崩れて、茅葦屋根が破れても修理しなかった。 と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。
三年が経ち、ある日、天皇は高台に出ると、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った。 三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。
「朕はすでに富んだ。喜ばしいことだ」 「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
すると皇后は言った。

「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」

「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
これに対して天皇はにっこりして、こう答えた。 天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」 「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
その頃、諸国の人々から、「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もない。この時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が次々とあった。 そのころ、諸国より

「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」  との申し出が頻頻とあるようになりました。

しかし天皇は引き続きさらに三年間、税を免除した。そして六年の歳月が過ぎ、やっと税を課し、宮殿の修理した。 それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。

剽窃をするとどうなるか[編集]

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脚注[編集]

  1. 「百田尚樹の「 #日本国紀 」、Wikipediaなどからのコピペが発覚してしまう」Buzzap!、2018年11月16日 20時0分(2018年11月18日閲覧)
  2. 【速報】百田尚樹が「 #日本国紀 」でWikipediaなどからのコピペを自供 Buzzap! 2018年11月20日
  3. 記事の性質上、争点となっているWikipedia各ページの編集年月日を掲載すべきだが、可読性を損なうため、以下、注釈欄に記す。 wp:ja:日本の国旗-2017年10月24日 (火) 21:48-2018年11月10日 (土) 23:02版
  4. wp:ja:北条早雲 -2017年11月6日 (月) 01:13-2018年11月10日 (土) 18:27‎版
  5. wp:ja:文禄・慶長の役-2017年10月25日 (水) 16:35-2018年11月12日 (月) 21:30版
  6. wp:ja:柴五郎 -2017年7月1日 (土) 16:54-2018年10月22日 (月) 21:54版
  7. 真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」『大阪新聞』1991年11月