岩窟ホテル

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岩窟ホテル(がんくつホテル)とは、吉見百穴の近くの吉見丘陵にある洞窟のことである。宿泊施設ではない。

概要[編集]

  • 近くの土産物屋の先祖が、岩山に掘った洞窟で、内部はホテルのような構造になっていると言えなくもないような雰囲気である。
  • 岩窟を掘ってるから岩窟ホテルと呼ばれるようになったという俗説もあるが、掘った人は、本気でホテルにすることも考えていたようである。
  • ロビーとおぼしい空間や階段なども造られているが、内部は湿気が酷くホテルとして使うのは現実的ではないが、風雨を防げる上に温度も一年中変化がなく、野宿するより遥かにマシではある。真夏に入れば冷房効き過ぎ級の寒さで、真冬に入れば暖かいと感じる不思議な世界である。
  • 洞窟内に効いている天然のエアコンには除湿機能がなく、岩窟ホテル内側の壁は常に湿っており、雨漏り(否、地下水漏れ)もある。池のように水が溜まっている所もある。ザリガニ程度なら飼えるに違いない。
  • 入場可能な頃は、洞窟内に水槽が置かれ、魚が飼われていた。だが「岩窟ホテルは水族館である」と言うのは幾らなんでも言い過ぎである。掘った人の子孫が水槽の置き場に困ってホテルのロビーに水槽を置いていたに過ぎない。また、洞窟内は温度変化が少なく、水槽の置き場として適していたようである。
  • 岩窟ホテルの敷地内には、中島飛行機の地下工場跡の開口部がある。地下工場跡の洞窟の方が岩窟ホテルよりも遥かに大規模である。地下工場跡の奥部は昼間でも暗黒の世界だが、岩窟ホテルには窓も作られており昼間ならば真っ暗ではない。
  • 地下工場跡は非常に大規模で、松山城跡と呼ばれる山の地下に留まらず、武蔵丘短期大学付近の地下にまで及んでいるばかりか、百穴や百穴射撃場の裏山にも開口部がある。
  • 松山城の規模は不明であり、百穴射撃場の裏山には地下工場の開口部の他に、人為的に加工されたとしか考えられないような形の岩山や、古井戸らしき縦穴も残されており、それらは松山城の一部であったと考えられる。そうであれば松山城は意外と広大な城で、武蔵丘短期大学などは松山城跡の一画に建てられているに過ぎない。
  • 以前、岩窟ホテルは入場料を払って入ることができた。当時は岩山にホテルのような絵が書かれていた。今は閉鎖されている。
  • 岩窟ホテルは内部の温度が一定のため、一部は野菜の貯蔵庫として使われている。

付近の伝説[編集]

  • 松山城のお姫様には婚約者(いいなずけ)がいた。その婚約者である鉢形城のお殿様が松山城に来るというので、松山城のお姫様は滑川(なめがわ)の水面に自分の姿を映してクシで髪の毛をとかしたそうである。
  • お姫様は大切なクシ(今なら百均で買えるが)を滑川に落として見付からなくなってしまったのであった。
  • 姫が「滑川の水は澄んではならぬ」と言ったので、それ以降、滑川の水は濁ったままなのだという。

伝説と地形の矛盾を考える[編集]

  • 松山城跡とされ城山と呼ばれる山は岩窟ホテルの真上付近にある。しかし、岩窟ホテルの前を流れる川は滑川ではなく市ノ川(いちのかわ)である。滑川は何百メートルも上流(北)で市ノ川に合流して消滅する。
  • 松山城のお姫様が滑川の水面を鏡代わりにしたいう伝説の真偽はともかく、そのような伝説が生じるからには、松山城は(少なくとも、城中で姫が住んでいた場所は)どう考えても市ノ川との合流地点よりも上流のはずである。昔は川の位置が多少違っていたとしても、滑川が岩窟ホテルの前を流れていたとは考えられない。
  • 松山城の姫が住んでいたのは岩窟ホテルから1㎞ほど北の百穴射撃場付近であった可能性が高い。
  • 積み上げられた石垣のようなものは一切なく、松山城は山中や崖の上に離れが点在する武家屋敷のようなものだったのであろう。入り口付近の石垣は近年に作られたもので、昔からあったものではない。
  • 松山城は室町時代から江戸時代初期まで200年以上続いた城であり、城主は上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、太田氏、桜井松平氏と何回も交代していたのである。その間には増改築も行われていたはずであり、城郭の範囲や殿様やその家族の居住箇所なども変化していったと考えるのが妥当である。
  • 岩窟ホテルの上にあり城山と呼ばれる山は、松山城のほんの一部に過ぎない可能性が高い。
  • 松山城は最大に見積もって、南は岩窟ホテル、東は武蔵丘短期大学、北は百穴射撃場にまで及んでいたと思われる。地下工場が、そのほぼ全域に及んでいることが興味深い。戦時中の人も戦国時代の人も、軍事的に利用できると考えた範囲が殆ど同じなのである。
  • 百穴射撃場の裏山は登ることが困難な岩山なのだが、人為的に造られたとしか思えないような急傾斜の通路状のものが一ヶ所ある。それは自然にできたとは思えないほど綺麗に整えられた道のようなものなのだが、生活に使うには傾斜が強すぎるのである。その道のようなものを造った者には、崖の上(松山城)を攻撃しようとする敵に態と登坂路を提供し、途中まで登ってきたら上から矢を射掛けたり岩を転がして撃退しようという戦術的な意図があったに違いない。
  • 実際、百穴射撃場の裏山(岩山)に登るには、その道のようなものを登る他にない。上まで登ると地面は異常な程に起伏がある。攻城を困難にするために、地面を掘ったり、土を盛ったりしたのだと思われる。そこを暫く進むと古井戸がある。