ハリー彗星
ハリー彗星(ハリーすいせい[1][2]、1P/Halley)は、75.32年周期で地球に接近する短周期彗星である。地球から肉眼で見える唯一の周期彗星であり、かつ人によっては唯一生涯で2度見ることも可能な彗星である。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、古来多くの文献に記録されている。前回は1986年2月に回帰し、次回は2061年夏に出現すると計算されている。ハレー彗星という表記は、以下に述べるように誤表記である。
名前について[編集]
イギリスの天文学者エドモンド・ハリー(Edmond Halley)は、1682年に出現した彗星の軌道を計算し、1531年と1607年に出現した彗星が、76年周期の同一の彗星が出現したものであろうと考え、次回は1758年に現れるだろうとの予言を残して、1742年にこの世を去った。そして彼の予言通り、1758年12月25日にドイツのアマチュア天文家パリッチュがこの彗星を検出したため、彼の業績をたたえて"Halley's comet"と呼ばれるようになった。彗星の名前が発見者などの名前を付けて呼ばれるようになったのは、この頃以降のことである。
「固有名詞発音辞典」、英語版のウィキペディア、オンラインの発音サイトなどの多くは、"Halley"の標準的な発音が"hæ-li"であることを示している。一部には「ヘイリー」("hei-li")と発音するHalleyさんもいるが、Edmond Halley自身がこの呼び方をしていたという証拠はない。
日本天文学会が1985年に復刻出版した「ハレー彗星特集」には、明治43年(1910年)のハリー彗星の回帰をきっかけとして創刊された学会の機関誌「天文月報」に、平山清次や一戸直蔵らが記事を投稿し、当時はみんな「ハリー彗星」と呼んでいたことがわかる。当時はこれ以外に保阪嘉内による「ハーリー彗星」という表記も見られた。「ドラえもん」には、当時の様子を描いた「ハリーのしっぽ」という話がある。
「ハレー彗星」という表記が最初に見られるのは、1916年(大正5年)2月号の「天文月報」に掲載された早乙女清房の記事である。その後、戦後に野尻抱影が書いた「天体の話」に「ハレー彗星」と書かれたことから、「ハレー彗星」という表記がしばしば見られるようになるが、それでも1970年代までは「ハリー彗星」が多数派であった。
「ハレー彗星」という表記が多数派になった大きな原因は、1980年ごろに宇宙科学研究所が計画していたプラネットA計画で「ハレー彗星」と呼んでいたことにあるとみられる(読売新聞1982年1月1日付)。このため、この年の秋にこの彗星の回帰がCCDカメラで検出された時に、マスコミは一斉に「ハレー彗星」と報じた(毎日新聞、読売新聞1982年10月21日付)ため、以後「ハレー彗星」が多数派となった。
しかし、その後も「ハリー」という表記は少なからずみられる。
「ハリー」と書いたもの[編集]
- 「天文月報」(1909-191X年各号)
- 「世界大百科事典」(平凡社 1974年)
- 「天文・宇宙の辞典」(1978,1983年)
- 「コンサイス人名事典」(1995年)
- 「岩波理化学辞典第5版」(1998年)
「ハレー」と書いたもの[編集]
- 「天文月報」(1915年2月号)
- 「ブリタニカ国際大百科」(1974年)
脚注[編集]
関連文献[編集]
- 「天文月報」Vol.1(2) pp.16-18, (明治41年5月号)「ハリー彗星(一)」(小川清彦)
- 「天文月報」Vol.1(3), (明治41年5月号)「ハリー彗星資料」(平山清次)
- 「天文月報」Vol.8(11), (大正5年2月号)「彗星の軌道に就て」(早乙女清房)
- 「ハーリー彗星の図」、(保阪嘉内)
- 「どらえもん」第33巻「ハリーのしっぽ」
- 読売新聞1982年1月1日付
- 毎日新聞1982年10月21日付
- 朝日新聞1982年10月21日付