ジュゼッペ・アネッダ
ジュゼッペ・アネッダ(Giuseppe Anedda, 1912年3月1日[1] - 1997年7月30日[2])は、イタリアのマンドリン奏者。[3][4][5][6]
カリアリの生まれ[7]。音楽に興味を示した為、幼少時より地元の音楽学校でソルフェージュを習う。ヴァイオリン専攻を望んだが、八人兄弟の末っ子な上に家庭の経済的余裕がなく、自宅にあるマンドリンを専攻。10歳でコンサートを開ける程に上達し、1923年にはリッカルド・ザンドナイの《フランチェスカ・ダ・リミニ》の作曲者自身の指揮による上演で、リュートのパートを任された。その頃からマンドリン四重奏のためのカラリス四重奏団を結成し、そこの第一マンドリン奏者としても活動した。その後、警察に就職してナポリの王宮の警備の仕事に就きつつ、1938年から全国余暇事業団主催のコンクールにカラリス四重奏団として出場して2年連続の優勝を飾るなどの活躍をした。1941年からイタリア・ラジオ放送局のために演奏するようになり、1948年にはアントニオ・ヴィヴァルディの2本のマンドリンと弦楽合奏のための協奏曲の蘇演で独奏を担当した。1952年から1963年までは、レナート・ファザーノの指揮するヴィルトゥオージ・ディ・ローマに参加している。1957年にはザルツブルク音楽祭に参加してマンドリンを紹介した[8]。1965年にはローマでイーゴリ・ストラヴィンスキーの《アゴン》の演奏に参加した際、作曲者から称揚されたことが話題になった。1970年から1975年までの契約でマンハッタン音楽学校でマンドリンとリュートのマスター・クラスを開講し、1971年には来日している。1972年にはプエルトリコのカザルス音楽祭に招かれた。1975年にはクラウディオ・シモーネの指揮するイ・ソリスティ・ヴェネティとスイスで共演し、この縁でパドヴァのポリーニ音楽院のマンドリン科教授となった。1980年にポリーニ音楽院を定年退職後も、演奏活動と後進の指導を積極的に行った。
カリアリにて死去。[9]
脚注[編集]
- ↑ “Giuseppe Anedda”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “Accadde oggi. 30 luglio 1997: muore il cagliaritano Giuseppe Anedda, il “Paganini del mandolino””. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “Anedda, Giuseppe”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “Giuseppe Anedda – 1912 – 1997 – Italiens großer Mandolinist des 20. Jahrhunderts”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “Giuseppe Anedda”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “GIUSEPPE ANEDDA IL MAGO DEL MANDOLINO di Ennio Porceddu”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ “良盤屋 C-2331◆LP◆ジュゼッペ・アネッダ(マンドリン)◆ペルゴレージ、チェチェーレ、ジュリアーノ/マンドリン協奏曲”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
- ↑ アーカイブ 2021年3月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ “G.Anedda”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。