ジェイミー・ミューア
ジェイミー・ミューア (Jamie Muir) はスコットランド出身のパーカッショニスト、ドラマーである(後に画家に転向)。一般には1972年から1973年にかけてキング・クリムゾンのメンバーであったことで知られている。
略歴[編集]
音楽性の模索[編集]
スコットランドのエディンバラ出身であるということのみが公表されており、生年や幼少期などの詳細は不詳。具体的な音楽活動として学生時代にピアノを習い始め、フレンチ・ホルンなどを始めるが退屈さに嫌気がさしジャズに興味を持つ。トロンボーンやコントラバスを学ぶが、学内の階段吹き抜けからコントラバスを落として破壊してしまい、打楽器の道へ進む。
その後1960年代はトニー・ウィリアムズやケニー・クラーク等のジャズ・ドラマーや民族音楽のレコードに学びながら自己流のドラミングを模索。ジャズバンドを転々とするが即興演奏の世界に行き着き、The Assassination Attempt(暗殺の企て)というトランペット、アルトサックス、ドラムのバンドを結成する。このバンドは一時詩人やダンサーなどを擁し16人編成となり、UKアングラシーンの中心だったライトハウスなどで演奏を行っていた。さらに一時期はアラン・ホールズワース(ソフト・マシーンやゴング、UKへの参加で知られる有名フュージョンギタリスト)やアラン・ゴウェンとサンシップというグループで活動していた時期もある。
ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー[編集]
1965年ないし66年彼がエディンバラのアート・カレッジでロンドンの数多くのバンドに混じって演奏した際、彼の演奏がギタリスト、デレク・ベイリーの目に留まり、ロンドンに来ないかと誘われる。同時期にエディンバラに興行中の振付師リンゼイ・ケンプ(デヴィッド・ボウイやケイト・ブッシュ、さらにはクラウス・ノミなどに振り付け指導したことで有名)率いる一座とも交流を持っていたため、ロンドンへ移住。一座での演奏を経た後デレクとエヴァン・パーカーと共にトリオ体制でミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニーを結成した。彼はこの時期からトーキング・ドラムなどの民族楽器を使用している。
カンパニー脱退後、アサガイというアフリカ系民族音楽集団などを転々とするうちに、アンダーグラウンドでの知名度はかなりのものとなっていた。
キング・クリムゾン[編集]
1972年、彼に一本の電話が入った。電話の主はキング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップ(ボブ)であった。「アイランズ」の北米ツアー途中にバンドが崩壊し、一時は活動休止宣言を発表するも水面下でメンバー探しを行っていたのだった。間もなくフリップはじめ、歌えるベーシストのジョン・ウェットン、同時期にイエスを脱退しキング・クリムゾンへ加入したドラムのビル・ブルーフォード、当時無名のバイオリン奏者デヴィッド・クロスによる5人が集まり、セッションとリハーサルを開始。人間的にも馬が合ったようでビルは「素晴らしい人物」、クロスは「彼がいた頃が一番楽しかった」と評している。またビルの結婚式においてジョン・アンダーソンに「あるヨギの自叙伝」を薦め、間接的にイエスの「海洋地形学の物語」成立に関与した。
彼らは未完成の6曲を携え10月13日フランクフルトはズーム・クラブに登場。強行とも言えるツアーの中、即興性の高い演奏で未完成曲を磨き上げ、後述するミューアのパフォーマンスも相まって新生クリムゾンはおおむね高い評価を得た。ツアーの勢いそのままに年末からレコーディングを開始し、6曲を収録したアルバムはミューアが中華料理を見て着想を得たという「Larks' Tongues In Aspic」(意訳すると雲雀の舌のゼリー寄せ、邦題は「太陽と戦慄」)と名付けられた。しかし彼が年明け2月にマーキー・クラブで行われたお披露目公演の最中に自らが振り回した鎖が頭に当たり負傷。翌日の公演をキャンセルする。
当時彼はヨーガや神秘思想、仏教に並々ならぬ関心を抱いており、「あるヨギの自叙伝」に影響され仏教修行の道を考え始めていた。負傷をきっかけに音楽以外の道も求めた彼はバンドから出奔する。マネージメントはこの急な事態に対し「ゴングを足に落として負傷したため脱退」と発表せざるを得なかった。
その後の活動[編集]
チベットで修業していたとも言われるが、数年後エディンバラの修道院に入り音楽から離れたまま1980年代までの時間を過ごす。1980年になってからデレク・ベイリーとの共演を再開、1995年にはキング・クリムゾンのオリジナルドラマーであるマイケル・ジャイルズとフライング・リザーズで一発屋の名を得たデヴィッド・カニンガムとの共演アルバム「Ghost Dance」を発表する。
その頃には画家に転向していたようであり、2000年代以降目立った情報は伝えられていない。90年代にMarquee誌記者の取材を受けた際に「太陽と戦慄パート1」の冒頭で使用していたカリンバをいとも簡単におみやげにさせてしまう辺り古いキャリアを割り切っている様子が伺える。
演奏スタイル[編集]
独特のタイム感による豪快で自由なヘタウマドラミングが特徴であり、ビル・ブルーフォードに多大な影響を与えた。ドラムセットの周囲に大量のパーカッションや大小の銅鑼や鉄板に鎖、パイプや風船に笛、笑い袋にトロンボーンなどのありとあらゆる楽器や小道具を配し、リズムキープをビルに任せるとそれらを効果的に用いることによって演奏を演出し、時に40分以上にわたる即興演奏を扇動する役割を担った。一方でフリー・ミュージックでは人声(ヴォーカル)の魅力が忘れられがちであるとの意見も持っており、バンドのバランスも考慮していたようである。
またサルバドール・ダリばりのピンとした口髭を立て、ローライズのパンツの上に素肌で毛皮をまとった野人のごとき衣装、足元の麻袋から落ち葉を取り出して撒き散らす意味不明な演出や、鎖を振り回しながら客席に飛び降り、その鎖で鉄板を叩いたかと思うと絶叫し口から突如血を吐いてドラムセットに倒れ込むなど、後のキッスなどをはるかに上回る過激なパフォーマンスが評判となった。
後の評価[編集]
当初ロバート・フリップによる5人体制はジェイミーのパーカッションやデヴィッド・クロスのバイオリンによる繊細な演奏とビルのドラム、ジョン・ウェットンのベースによる大音量のリズム隊の対比というダイナミックレンジの非常に広い音楽が特徴であったが、ジェイミーの早すぎる脱退により1973年の時点でバンドは早くも水面下ではバランスを失いつつあったといえる。
さらにバンドの本格的な北米進出によって聴衆の求める音楽が大音量のヘヴィー・メタル的なものであったため、居場所を失ったクロスの脱退とバンド崩壊につながる要因となった。 またジェイミー加入によるツイン・ドラム制は後の「ダブルトリオ・クリムゾン」などに引き継がれる原型となり、キング・クリムゾンの歴史において彼はたった七ヶ月間という短期間のみ在籍した異分子的存在であるにも関わらず、その影響力は現在も及んでいる。