責任

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責任とは、義務と権利の関係にコミットすることをいう。

概要[編集]

日本の民法上は以下のようになっている(民法第一条)。

  1. 私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ
  2. 権利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコトヲ要ス
  3. 権利ノ濫用ハ之ヲ許サス

ここには「責任」という語は出てこないが、「公共の福祉」「信義に従い誠実にこれを為す」「濫用」という言葉が出てくる。そうなると、「『公共の福祉』とはいかなるものか」「『信義に従い、誠実に』とはどいいうことか」「『濫用』とは、『限度を超えて用いる』ことであるが、その『限度』の基準は何によるのか」が問題になるわけで、そうなると日本国憲法にまで遡らないといけなくなる。
憲法第一一条によれば、日本人は「すべての基本的人権の行使を妨げられない」とある。同時に、「この憲法が国民に保証する自由および権利は国民の不断の努力によって保持しなければならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」となっている。
そんなわけで権利と義務と責任はセットで論じられる。
そうなると、残るは「信義」と「誠実」である。すなわち「無責任」とは、本来は「責任にコミットしない」ことであり、「私はステークホルダーではないので、第三者として意見を述べることしかできない」というのは「無責任」だが信義に反していないし「手を出す権利もない」のだから悪くもない。一般にいう「無責任」は「義務を果たさず、権利を行使する」ことであり、「やらずぶったくり」である。

企業における責任[編集]

たとえば、人を使う立場になるかもしれないときに、使われる人の人生に対しての責任に対してコミットするのは無理である。人一人の人生にコミットできるとしたら、その範囲はせいぜい家族という血族であり親族でしかない。日本の「イエ制度」はここに由来する。
したがって、日本における責任とは、「社会的責任」を含めて「イエ」に基いている。日本の企業は「イエ」意識に基づく「家族的経営」が主流であった。そうなると、「何かの問題が起きたときに従業員案件になるのか管理職案件になるのか、経営者案件なのか(経営者会議に諮る)株主案件なのか」の話になり、「イエ」範囲が問題になる。
新古典派経済学の影響により、「コスト(経費)」と「ベネフィット(利潤)」の関係において企業経営のありようが変化し、イエとしての企業の経営方針も変化した。すなわち、「株主に対してどれだけの配当ができるか」が企業価値であり、従業員に対しては「無責任」な企業が、いわゆるバブル経済の崩壊以降続いてきた。
かつては「中小企業(おもに町工場)の経営者が、会社が倒産したので従業員に退職金を払えないために首吊り自殺をして生命保険金をそれに充当する」とか、「都市ガスで一家心中する(現在の都市ガスには一酸化炭素が含まれていないので、あまり有効ではない。練炭自殺が最近は流行しているらしい)」とかいった話は昔のTVドラマのお約束である。
従業員は「第一債権者」であるため、企業が倒産した場合にはその資産を優先的に分配されるのだが、倒産する前に資産を金に換えられて資産がマイナスの状態で倒産されると従業員の懐には一銭も入らない。こういった絵図面を引いて計画倒産をする「ブラック士業者」などが、現在の反社会的勢力の手先になっている。
「やらずぶったくり」を「責任」と言いつのる輩は、単に(誹謗としての)「無責任」ではなく「反社」である。

漢字[編集]

jaucp:責任 (漢字)」も参照

2006年の安倍晋三総理(当時)のインタビューによれば、一見二文字の熟語に見えるこの「責任」は、じつは漢字一文字だったようだ。[Jokeこの一文には冗談が含まれています。真に受けるかどうかはあなた次第です。]

脚注[編集]