菊池恭三

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菊池 恭三(きくち きょうぞう、安政6年10月15日 - 昭和17年12月28日)は明治時代の技術者、経営者。大日本紡績(現・ユニチカ)社長、貴族院議員、尼ケ崎紡績社長、日本レーヨン社長、共同信託社長を歴任する。日本郵船取締役。正六位勲四等。工学博士。

経歴[編集]

  • 1859年(安政6年10月15日)、伊予国(現愛媛県)西宇和郡川上村の庄屋、菊池泰成の三男として出生する。
  • 1872(明治4)年12月、吉田藩士郡奉行・鈴木勝吉の養子となる。
  • 1876年、大阪英語学校(後の第三高等学校)に入学する。
  • 1879年(明治12)年、工部大学校機械工学科に入学する。
  • 1885年(明治18年)工部大学校を卒業し、海軍省横須賀造船所設計部に勤務する(26歳)。
  • 1886年(明治20年)海軍省を辞職し、大蔵省大阪造幣局に勤務(27歳)。同年、英国留学を条件に紡績技術者として平野紡績へ入社する。
  • 1887年(明治21年)年、英国マンチェスター・テクニカル・スクールで学びながら、紡績工場で技術実習。英国より帰国、平野紡績の支配人兼工務部長に就任。
  • 1888年(明治22年)、尼崎紡績支配人兼工務長に就任(28歳)
  • 1889年(明治23年)摂津紡績工務長支配人に就任し、3 社の技術責任者を兼務する(30歳)。
  • 1901年(明治34年)、尼崎紡績社長に就任(42歳)。
  • 1902年(明治35年)、摂津紡績は平野紡績を吸収合併(43歳)。
  • 1915年(大正4年)年、摂津紡績社長に就任(56歳)。
  • 1918年(大正7年)、尼崎紡績と摂津紡績が合併し大日本紡績設立、初代社長となる(59歳)。
  • 1924年(大正13年)、三十四銀行頭取に就任(65歳)。
  • 1933年(昭和8年)、三十四、山口、鴻池、3銀行の合併により三和銀行設立、取締役に就任。
  • 昭和11年、大日本紡績(現ユニチカ)会長。
  • 1942年(昭和17年)、 死去(83歳)。

人物[編集]

  • 藩校で翻訳書や福沢諭吉の著書など開明的な書籍を読み、学問に目覚めた恭三は、大阪・東京への遊学を養家に願い出た。しかし、養父母はこれを拒絶し、縁談を急ぐことで彼の向学心を挫こうとしたため、やむなく恭三は養家を逃亡した。
  • 造幣局に着任後、工部大学校同期生の吉村長策が訪ねてきた。吉村の親戚が平野紡績の発起人となり、適当な技術者を探すよう頼まれたという。「君が一番適任だと白羽の矢を立てて来た、君一つ、紡績の技術面を担当してくれないか」[1]と勧誘を受け、英国留学を条件に引き受けた。
  • その頃、監督官庁の大阪府は「目下技術者を得ることは甚だ難しき勢いに有り」と、技術者の確保が会社設立の条件となっていた。そのようなときに、吉村の誘いで恭三が入社し、会社設立の条件が満たされて平野紡績が誕生した。
  • 平野紡績社長の金沢は経営を支配人の恭三に任せきりであったが、「技術家は重役たるべからず」として、恭三の部下で副支配人の義弟の仁作を取締役としたため、1898 年に平野紡績と絶縁した。平野紡績は1899 年の金沢病没後は業績が低迷し、その3年後に摂津紡績に吸収合併された[2]

注・参考文献[編集]

  1. 新田直蔵編著(1948)『菊池恭三翁傳』菊池恭三翁伝記編纂事務所
  2. 藤本鐡雄(2001)『近代紡績業の先駆者 菊池恭三伝』愛媛新聞社