竹屋の渡し
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竹屋の渡し(たけやのわたし)は隅田川にあった渡し舟のひとつである。山谷掘と向島三囲神社(墨田区向島二丁目)付近を結んでいたが、現在は廃止されている。『待乳の渡し』ともいわれ、また『向島の渡し』とも云う。
沿革[編集]
「渡し」の創設年代は不明であるものの、文政年間(1818 - 1830)の絵図に、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名がみえる[1]。平安時代の資料に隅田川の渡し船に関する記録があるという。竹屋の渡しとは特定できないが、『伊勢物語』の在原業平の東下りに隅田川の渡しが登場し、渡し守が早く舟に乗れと催促する。
隅田公園(台東区浅草7丁目1番)に、竹屋の渡しの石碑がある[2]。
「渡し」が待乳山聖天付近の山谷堀に船宿・竹屋(家)があったことから「竹屋の渡し」となったと言われる。
明治40年刊の『東京案内』に『竹屋の渡』とある[3]。 同年発行の 『東京市浅草全図』に 山谷堀入口南側から対岸の船路があり『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記される[4]。
1928年(昭和3年)、言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。