真間手児奈

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真間手児奈[1]または真間手児名[2](ままのてこな)は、伝説の美少女。一説に、乳首が尖っていたという。「てこ」は娘を意味する方言、「な」は接尾辞でこの場合は愛称となる[1]

伝説[編集]

舒明天皇(在位:593年?- 641年)の時代、一説に允恭天皇(5世紀前半の人物)の時代、下総国葛飾郡真間(現・千葉県市川市真間)に住んでいた[3]

以下、市川市公式ホームページによる:

むかしむかし、真間のあたりは低湿地で菖蒲や葦がたくさん生えていた。真間山のすぐ下まで海岸線が迫り、港もあった。その時代の真間では井戸水に塩分が含まれており飲めなかった。ただ一つ「真間の井」とよばれる井戸を除いて。手児奈も真間の井に水を汲みに来ていたが、彼女の美しさに関する描写は高橋虫麻呂の「1807」とほぼ同じ。市川市公式ホームページの元ネタである『市川のむかし話』が『万葉集』を参考にした可能性もある。

やがて下総国府(現・市川市国府台)の役人や都からの旅人までが彼女に求婚するに至ったが、すべて断った。手児奈のことを思って病気になる者や、兄と弟で醜いけんかを起こす者も出た。そんな有様を見て手児奈は「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう」と思い悩んだ。手児奈が真間の入江まで来ると、ちょうど夕日が海に沈もうとしていた。「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう」と海へ身を投げ、命を絶った[4]

市川市真間には彼女の霊を祀る手児奈霊神堂がある。また、隣接する亀井院境内には彼女が水を汲みに来たという真間井がある[2]。また、男たちが懲りずに通ったという真間の継橋の跡地には記念碑がある[2]

万葉集[編集]

彼女の伝説は時を隔てて万葉の歌人にも影響を与えた。高橋虫麻呂(生没年不詳。奈良時代の人物)は次のような歌を残している。

鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
(口語訳)東国に昔あった話といわれている。葛飾郡真間の手児名は麻の服に青い衿を付け、もすそには麻を直に身につけ(るような貧しい娘であったが)、髪に櫛を入れるでなく沓もはかない状態でも高級な着物を着た箱入り娘が彼女に及ばなかった。満月のような丸顔で花のように微笑んで立っているだけで男たちは飛んで火にいる夏の虫、船が港に吸い込まれるように集まってきて求婚した。しかし彼女は「たかだか有限のこの命、何のために…」と思い詰め(て海に身を投げた)、今もあの波の下に眠っているのか。遠い昔にあったことではあるが、まるで昨日あったことのようにリアルに感じられる。 — 高橋虫麻呂、万葉集1807[5]
勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(口語訳)葛飾郡真間の井戸にやってくると、女性たちが立ち並んで水を汲んでいるのが見える。このような光景を見るとかつてこの地にいた手児名が偲ばれる。 — 高橋虫麻呂、万葉集1808[6]

「1807」では自殺の動機について具体的に述べてはいないが、菟原処女うないおとめの墓を見たときに読んだ歌(1809)と並べてあることなどから、複数の男が自分のために争うことが嫌になってそれを止めるためとも推測可能だ[7]。菟原処女も、複数の男に求婚されて最終的に自殺している[8]。虫麻呂の歌には、人間の男に嫁ぐわけにはいかない巫女のイメージが暗示されているという文献もある[1]初版立項者は別に巫女萌えというわけではない。多分。水汲みは女性の仕事ではあったが、神に禊をすすめる巫女の面影をとどめている(桜井満による)[9]。桜井は、多くの求婚者がいたにもかかわらず断るしかなかった彼女は美少女としての評判を高めた、とする。また、命を絶たなければならなかったという点に巫女の姿を見る[10]

山部赤人(? - 736年?)も彼女に関する歌を残している。いつ、何の目的で旅をしたのか不明であるが、東国で彼女の墓を見て歌を詠んだ。

古に ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つきを こことは聞けど 真木の葉や 茂りあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ
(口語訳)遠い昔ある男が倭文織りの帯を解き交わそう[11]と、小さな家を建てて求婚したという美女、真間手児奈の墓はここだと聞いている。しかし槙の葉や松の根に隠されて(本当にあるのかわからない)。(墓という物証がなくとも)伝説の美少女の名前だけでも忘れないだろう。 — 山部赤人、万葉集431[12]

また、東歌に次のような歌がある。

葛飾の真間のてこなを。眞かも。我れによすとふ。真間のてこなを。
(口語訳)真間の手児奈がだよ、おいおいホントかよ、私に気があるらしいんだ、(あの有名な)真間の手児奈がだよ — 万葉集3384[13]

これ、彼女が存命中に詠まれたはずだけど、具体的に西暦何年だろうか。山部赤人の時代、すでに墓がどこにあるか分からないということは…。

時は流れて[編集]

ここまでなら「万葉集の人物」で済んだはずだ。『月刊いちかわ』1999年10月号によると、宗左近作詞、三善晃作曲による「市川賛歌―透明の芯の芯」が完成したそうな。1番から3番まで歌っても数分であろうこの曲の歌詞に、「少女の乳首のきに富士とがり」「とがり始める少女の乳首の富士」と、なんと2回も少女の乳首が出てくる。これは「万葉集に詠われた<手児奈>と若者の熱愛をイメージ」したものだと『月刊いちかわ』が明言している[14]

ちなみに、宗左近と三善晃の組み合わせは常人には理解できない核反応を起こす?模様。ゆんゆん校歌で知られる福島県立清陵情報高等学校校歌『宇宙の奥の宇宙まで』もこの二人の負の遺産である[15]

その他、1998年に手児奈Tekonaという薔薇の品種が作出されている[16]

出典[編集]

  1. a b c 朝日新聞社 1994, p. 1596.
  2. a b c 世界大百科事典 2007, p. 160.
  3. 大日本人名辭書 1937, p. 2528.
  4. 市川市 2021.
  5. 万葉集 2008, p. 211-213.
  6. 万葉集 2008, p. 213.
  7. 万葉集 2008, p. 212-213.
  8. 平凡社 2012, p. 526-527.
  9. 桜井 1986, p. 116.
  10. 桜井 1986, p. 117.
  11. 帯を互いに解くのは求婚の儀式。一説に、妻と別れること。この男は手児名に求婚するためにあらかじめ妻と別れた?
  12. 桜井 1986, p. 113-115.
  13. 折口 1958, p. 33.
  14. 「『市川賛歌』が誕生! 11月3日初演へ練習始まる。」、『月刊いちかわ』第359号、エピック、市川市市川、1999年10月1日NDL00042084
  15. 校歌”. 福島県須賀川市滑川: 福島県立清陵情報高等学校. 2022年2月23日確認。
  16. 手児奈”. バラ図鑑. 2023年7月24日確認。

参考文献[編集]

  • 『大日本人名辭書』第4巻、大日本人名辭書刊行會、大日本人名辭書刊行會、東京市小石川区竹早町、1937年6月20日、増訂十一版、2528頁。doi:10.11501/1114232
  • 『朝日日本歴史人物事典』 小泉欽司、朝日新聞社、1994年11月30日、1596頁。ISBN 4-02-340052-1
  • 『新版日本架空伝承人物事典』 平凡社、2012年3月23日、新版第一刷、526-527頁。ISBN 978-4-582-12644-0
  • 『世界大百科事典』27、平凡社、2007年9月1日、改訂新版、160頁。ISBN 978-4-582-03400-4
  • 桜井満 『万葉の歌―人と風土― ⑬ 関東南部』 保育社、1986年11月30日。ISBN 4-586-70013-0
  • 『折口信夫全集』第廿九巻、折口博士記念會、中央公論社、1958年1月5日doi:10.11501/1663669
  • 『万葉集』 小島憲之, 木下正俊, 東野治之(校訂・訳)、小学館〈日本の古典を読む④〉、2008年4月30日、第一版第一刷。ISBN 978-4-09-362174-8
  • 市川のむかし話『真間の手児奈』”. 市川市 (2021年9月17日). 2023年7月24日確認。
  • 市川民話の会(編著) 『市川のむかし話』 市川民話の会、2012年、改訂新版。NDL22202163