浦澤修

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浦澤 修(うらさわ おさむ、1973年(昭和48年)6月25日-)は、日本の観光、インバウンドコンサルティング、ウェブディレクター、編集者、ライター。埼玉県草加市出身。身長160cm。血液型A型。

略歴[編集]

学生時代[編集]

埼玉県草加市清門小学校、埼玉県草加市新栄中学校、埼玉県立草加高校、青山学院大学第二部英米文学科。大学3年卒業後、1年間休学、翌1998年3月卒業。

編集者時代[編集]

1996年、大学を休学し、朝は築地の玉子焼き店、夜は歌舞伎町のお弁当配達のアルバイトをしながら夢だったシナリオライターの勉強に励む。この当時、早稲田の風呂なしの33000円のアパートに住んでいた。1年間シナリオライターの勉強をしたが結果が出ず。大学に復学するも、大学の先輩の紹介で放送作家事務所に所属。深夜ラジオのハガキ書き、バラエティ番組の企画書作成など。毎晩、飲み会の社風が合わず、わずか3ケ月で退社。放送作家の社長にこっぴどく怒られる。

アルバイトを点々としながらも、アルバイト雑誌に載っていたテレビライフ編集部の面接を受けるも不合格。その後、面白いと思ってくれた当時の編集長から雑誌のタイアップ企画書作り、イベント取材の依頼が。しばらくすると、表紙、TBS担当の編集者が業務が多忙のため、アシスタントがほしいということで、テレビライフ編集部に特集班のアシスタントとして籍を置くことに。

テレビライフ編集部に入社後は、大学に通いながら編集業務を行う。TBS担当、男性アイドル担当、お笑い担当を。V6がMCを務めた1997年10月スタートの『学校へ行こう!』の特集ページのラフデザインは大学の授業中にやっていたとか。

その後、TBS担当としてドラマの特集記事を制作、男性アイドルグループの連載、お笑い担当として新人お笑い芸人のコラムを担当。入社時、「3年で辞めて社長になる」と決めていたことから、2000年、テレビライフ編集部を退社。

2001年、表参道・同潤会アパートで、新宿のホームレスをひと夏密着したドキュメント写真詩集の個展を開催。翌年、『Missing Santa-行方不明のサンタ-』(2002年、自由国民社刊)として書籍化。

フリー編集者として、『高田純次の人生教典』(2002年、河出書房新社刊)、『曜日対抗いいとも選手権!!BESTゲーム集88』(2002年、河出書房新社刊)、『恋を何年休んでますか~ホームページ・トークバトル集~』(2002年、河出書房新社刊)、『さんまのからくらSUPER TV 加藤淳の本』(2002年、河出書房新社刊)、『ちゅらさんファンブック』(一部編集)(2002年、双葉社刊)『ウンナンの気分は上々。ベストセレクション』(2003年、学研刊)、スピードワゴンのスピチャン!』(2004年、学研刊)、『Matthew's Best Hit TV マシューの真実』(2005年、学研刊)、『新装改訂版ちゅらさんファンブック』(一部編集)(2003年、双葉社刊)、『高田純次の適当教典』(2007年、河出書房新社刊)『高田純次の秘密主義』(2012年、学研刊)その他多数を担当。

その他、ビジットジャパンキャンペーンの一環で、アメリカ旅行会社向けの関東の観光エリアの情報制作のライターを担当。TBS採用ページのウェブページのスタッフインタビュー担当。

社長時代[編集]

フリー編集者として体力の限界を感じ、2004年、株式会社オーエイチを設立。業務は主に宿泊施設向け日本語、多言語ウェブサイト制作。当時、日本に外国人客が約600万人程度しか来ていない頃だった。宿泊施設に営業に行っても、「外国人客はいらない」と門前払いの中、伊豆の旅館に営業に行った際に、「ついにこういう企業が現れたか」と感心される。約10年間で200以上の宿泊施設向けウェブサイトのディレクションを担当。

2014年、株式会社オーエイチを離れ、同じ業態で株式会社オージャパンを設立。インバウンドサービスの老舗企業。宿泊施設のウェブサイト以外にも地方の発展のために多言語ウェブサイト制作、海外プロモーションも。伊豆の河津にまだ外国人が来ていなかった2009年頃にサポートのお手伝いを。多言語サイト制作、パンフレット制作を担当。今では河津桜祭りの時期には約30万人の人が訪れる。栃木県益子町の陶芸家インタビューの英語サイトも制作。2023年はDMO川越のインバウンドアドバイザーとなり、多言語ウェブサイトのアドバイス、SNSの海外プロモーションも行う。地方活性化には一次産業のブランディングサポートが重要と考え、一次産業向けのブランディングサービスも。

脚注[編集]