森下自然医学

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森下自然医学(もりしたしぜんいがく)とは、医師であり血液生理学者の森下敬一(もりした けいいち:1928年3月3日 - 2019年12月31日、医学博士)[1]が、大学研究室時代に動物実験を繰り返し、食物と血液の関係、および白血病治療の研究を皮切りに築き上げた「自然医学理論」[2]に基づく医学で、「腸管造血説」「細胞新生説」「血液の可逆的分化説」を三本柱としている。

米国をはじめとする自然医学(Naturopathy)との違いは、Naturopathyがインドのアーユルベーダ、中国の道教、ギリシャのヒポクラテスを含む色々な国の自然療法を利用して自然治癒力を助けるという指導原理[3]であるのに対し、森下自然医学は、血液生理学の立場から、現代医学の疑問点に対し実験的な検証を重ねて確立していった理論を基礎としていることである[3]

基礎研究 昭和25(1950)年 -[編集]

1950年、東京医科大学を卒業した森下敬一は、生理学教室に入室し血液生理学を専攻する[4]。主要課題となったのは「食物と血液」であり、その中で「葉緑素と血色素」も研究テーマのひとつとなった[5]

葉緑素と血色素[編集]

植物に含まれる葉緑素は、太陽エネルギーを化学エネルギーに転換し、自らの生命活動を営むと共に、間接的に動物をも養っていることから、地球上の全生命体は葉緑素によって生かされているといってよい。

葉緑素の化学構造は、赤血球の血色素(ヘモグロビン)と極めて類似しており、両者がもつポルフィリン核の中心が、葉緑素はマグネシウム原子(Mg)、ヘモグロビンは鉄原子(Fe)というだけの違いである[6]

つまり、葉緑素のマグネシウムが、人体内で鉄におきかわると、緑の色素が赤い色素に変わる。大まかなメカニズムは、腸から吸収された葉緑素が肝臓に運ばれて胆汁色素に変わり、その一部が腸粘膜に生理的に存在している鉄を包み込んでヘモグロビンに変わると考えられる[6]

光合成で主役を演じる葉緑素はポルフィリン蛋白体であり、葉緑素が無ければ植物は存在しえず、食物の中にも、血液の中にも、そして体細胞の中にも共通のポルフィリン体が厳然と存在しているという事実は、それら3者が連続性をもっていることを示している。つまり、この事実は、食物・血液・体細胞の3者が、次元こそ違え本質は一体であることを裏書きすると判断されるのである[7]

貧血の患者に葉緑素を摂らせると、血球の素材となるのに加えて、その強い触媒作用により造血機能が活性化され著効が得られる。そのほか、葉緑素の浄血作用、消炎作用、損傷組織の修復作用など研究結果は多岐にわたる[6]

生命の本質は「変わり易い」ということであって、またそれは、流転・変貌する自然界(生活環境)との統一体でもある。生命は、生活環境から独立した「閉鎖的実体」ではなく、むしろ環境との交流を基調とする「開放的な系」であるから、極めて易変性に富んでいる。生命および細胞の起源、増殖、発展においても、現在のような閉鎖型ではなく、開放系の生命観こそ生命科学の基本理念でなければならない[2]

食物と血液[編集]

森下の医学生時代、ウシ、ウサギ、ヤギなどの草食動物の腸内は完全に葉緑素の世界であるのに、腸の壁1枚隔てた体の中は赤い血の世界に変わることを不思議に思い世界中の文献を漁る。

欧米では、デュラン・ジョルダ(マンチェスター)が、ラクダの腸で造血するという「腸造血」を唱え[8]1950年に「ネイチャー」に発表、その2 - 3年前にはベストレーム(ストックホルム?)が同様の説を発表していた[9]

森下は敗戦後の医学生時代に、オタマジャクシがカエルに変態していく過程の血液の状態を観察し続けていた。オタマジャクシは手足が無いのに、大人のカエルと全く同じ形の赤血球が同じ数だけ存在しており、造血に手足の骨髄は関係ないことをすでに確認済みであった[5]

それ以前に、動物の骨髄組織の95%は長幹骨(大腿骨、下腿骨、上腕骨、前腕骨)に存在することを実験によって確認しており、骨髄組織と体を連結している血管を遮断しても貧血が起こらないことも実験で済みである[5][10]

卒業後の1年間(1951年)、国立相模原病院(陸軍第三病院)にインターンとして勤務し、多くの戦傷者の中で手足を失った兵士たちを観察すると、みな血色が良いことに気づく。彼らに協力を依頼し採血して調べたところ、普通の人より赤血球がmLあたり数十万個多いという結果を得た[10]

それ以前に、動物実験で腸の壁に細胞毒を注射して腐敗させると貧血が起こることを確認しており、それらの実験を前提として「腸管造血説」へ辿りついていく[9][11][5]

昭和29 - 30(1955)年頃、森下は動物実験で、白米を与えた場合より玄米を与えたほうが血液の状態が良いこと、動物性のものを多く与えると血液の状態が悪くなるというデータを得て、食餌による白血病の治療を研究するようになる[5]

昭和31、32(1956 - 1957)年ころ、桜沢如一(日本の食医とされる石塚左玄の直弟子で「マクロビオティック」の提唱者)のグループの集まりで、森下は自己紹介を兼ねて研究内容を話したところ、桜沢が大いに関心を示し交流が始まった[5][12]

昭和32 - 33(1957 - 1958)年、座間近くの養鱒所でニジマスの白血病が多発し、調査を依頼されて解剖すると肝臓がはれあがっていた。餌は、大型魚の廃棄部分から抽出したエキスを濃縮した高タンパクの固形飼料であった。対策として森下は、フスマと麩、山に自生する雑草を乾燥粉末にした葉緑素、わずかな魚エキスを加えた餌を作って与えたところ、問題はすべて解決した[5][12]

そのことが新聞の地方版に掲載され、今度は養鶏場から鶏の白血病の調査依頼が殺到する。その中で、神奈川県二宮で県内一の養鶏所(田代養鶏所)があり、そこの調査依頼を受け、鶏の羽の下の静脈から採血し顕微鏡で観ると、状態の悪い鶏はすべて典型的な白血病だった。養鶏所から白血病の鶏4 - 5羽を貰い受け、研究室に飼育室をつくり、鶏小屋の環境改善には腐葉土を敷き、餌として玄米とキャベツと粗塩を与えたら全羽が治癒した[5][12]

ニジマス(座間の養鱒場)と鶏の白血病を解決したあと、改めてヒトの白血病に向き合おうとしていた昭和35 - 36(1960 - 1961)年、桜沢が研究室を訪れ、完治した鶏とその血液の顕微鏡写真を観て、病鶏の治療に生玄米、キャベツの芯、粗塩を与えたこと、鶏小屋の床に腐葉土を敷いたことが勝因だと述べ、ヒトの白血病対策にも期待を示す。

その折、研究員全員が玄米飯とキャベツに粗塩の食事をしていたのを、桜沢夫人が鉄火味噌を加えるよう助言している[5][12]

腸管造血説(千島・森下学説)の公表 昭和32年(1957年)[編集]

[9]当時「読売新聞」記者の二宮信親(後に読売新聞社出版局長を経てラジオ日本常務取締役)が、昭和32年5月に森下の新学説を読売新聞で初めて紹介した。その前に、二宮は岐阜の農学者で同様の説を唱える千島喜久男(1899年 - 1978年)を知り、千島に会って森下の研究を紹介している。

千島は森下の研究をすでに聞き及んでおり、自身の腸造血のヒントとしては、デュラン・ジョルダの本を読んでいた。二宮は彼らの新学説について、研究に関する両者の協力を進言すると、「その通りですよ」と何度もうなずいたという。

森下、千島の両者が、別の立場からの研究で同様な結論を唱えていたことから、二宮は「千島・森下学説」と呼び、新聞その他で紹介した。前後して、当時「科学新聞」記者の鵜野誠(後に同社編集委員を経て科学評論家)も科学新聞に掲載し、森下の学説が公に一般の目に触れるようになった。

それらの記事が出た昭和32年の夏、千島喜久男が上京して森下への面会を希望し、科学新聞記者の鵜野が森下に引き合わせている。両者は互いに大いに喜び、千島は上京を重ねるようになる。森下も独自の実験画像や病院で入手した組織標本などを提供し、良好な協力関係を築いていった。千島は新学説の呼び名にはこだわらないと述べ、森下は生涯にわたり「千島・森下学説」と呼んでいる。

そのころ千島は学位論文の提出先に苦慮しており、受理してくれる大学の紹介を森下に依頼して、森下は最終的に東邦医大の解剖学教授である幡井勉に論文を収め、幡井の指導のもとに手を加え、医学博士の学位論文として受理された。千島は森下に感謝の意を表し、巨大な岐阜提灯を贈呈して、森下はこれを家宝とした[9]

森下が腸管造血説に至るきっかけとなったのは、東京医科大学生理学教室時代に、骨髄造血の概念が内包する不合理性を実験的に証明しようとしていたある日、偶然にも、ヒキガエルの赤血球から白血球が新生される現象に邂逅したことである。医学・生物学界の常識を鑑みて、ひとり密かに追索を試みた末、昭和26(1951)年には紛れもない事実であることを確信するに至る[2]

森下の研究は、地球の誕生から生命の起源にまで遡り、のちに常識となるも当時は否定的な見方がなされていた「生命の自然発生説」を是とした。そして、生命前段階物質はいまなお造り出されており、それらは連続した流れの中にあって、らせん状に全部が関連しているもので、それらの現象は可逆性があると考えた。例えば、呼吸現象と解糖系、醗酵と硝酸呼吸と酸素呼吸、同化作用と異化作用などは別々に存在するのではなく、環境の条件によって可逆的に移り変わる反応である[13]

腸管造血理論は、食べ物が食物性モネラ(生命前段階物質)に発展し、それが腸粘膜において血液細胞に変わり、血液細胞がさらに寄り集まって体細胞に変わっていくとするもので、それらに関する動物および人体組織の膨大な顕微鏡写真をもって証明している。

昭和30(1955)年の学位授与を機に東京歯科大学に移り、それまで書き纏めていた論文の学会発表を試みる。主として生理学会総会と生理学談話会においての発表であったが、よき理解者を得るには至らず、主流の学術雑誌にはこぞって否定され圧迫を受けた。そうした状況での千島との出会いは、大きな喜びであったという[2][9][14]。    

昭和33(1958)年前後、研究内容のさらなる証明のために映画撮影を思いつき、当時アメリカの顕微鏡映画撮影装置が高価だったため、一定間隔でシャッターを切る自動撮影装置を自身で発明して、四六時中撮影した。この赤血球から白血球が生まれる画像も大問題となり、これらはすべて医学界から黙殺されたものの、自作の顕微鏡映像撮影装置は、第12回東京都優秀発明展覧会で入賞した[15]。この動画は森下独自のものであったが、千島の名も加えて発表している[9]

その後、森下は自身の理論に基づく二十数年の臨床経験をふまえて、独自の自然医食(浄血・消ガン食)を開発するが、浄血の具体的な手法において、牛乳を推奨する千島とは決定的な意見対立を生じ、実践運動において袂を分かつこととなる。

昭和36(1961)年、千島は雑誌「生科学評論」に「現代医学の五原則批判」という論説を載せた。これは現代医学批判論であり、森下も大いに共鳴したものの、千島はそれを「千島学説の八大原理」という哲学に飛躍させていく。千島は森下に対し、牛乳推奨論や千島哲学に同調するよう迫り、あくまでも科学的方法で進みたいとする森下を、千島の発行する雑誌「生命と気血」で2度にわたり激しく攻撃する。森下は、科学と哲学という思想的な立場の違いと認識し、黙して語らず、両者の協力関係は消滅に至る[9]

千島は昭和53(1978)年、十二指腸潰瘍を患い永眠(享年79歳)。昭和56(1981)年、腸造血説などの学説権利について、千島の遺族が森下を提訴するも、森下側が全面勝訴している(岐阜裁判)。


自然医学の基礎理論(森下理論) 昭和35(1960)年[編集]

森下自然医学は、森下が医学生時代から実験と検証を重ねて構築した、以下の3つの学説を理論的基礎として成り立っている。

Ⅰ.腸管造血説[編集]

充分な食餌が与えられると、それは消化酵素の作用や腸の運動による撹拌を受け、ドロドロの状態(食物性モネラ)になって腸絨毛の表面を覆い尽くし、絨毛の突起が目立たなくなる。食物性モネラは、かつて生命の自然発生説を唱えたオパーリンの「コアセルベート」に匹敵する生命前段階物質である[16]

このモネラと絨毛組織の境界は不明瞭で、境界領域においては「食物性モネラから絨毛上皮細胞へ」と分化していく漸進的な連続性が観察される(PLATE ⅴ:血球の起原p86)。

腸粘膜は半透膜的な性質をもっており、絨毛が食物を自身の組織内に取り込んで消化する現象は、巨大なアメーバ―様の組織と解釈できる。

なお、絶食ウサギでは、充分に消化されていない木片なども腸粘膜内において観察されており、現代栄養学の「食物中の蛋白質、炭水化物、脂肪などは、それぞれアミノ酸、ブドウ糖、脂肪酸に分解されないと腸粘膜を通過しない」という考え方が否定される[16]

食物モネラが絨毛組織に取り込まれると、液胞が生じ、液胞内に核ができ、ついには絨毛上皮細胞に分化していく。こうしてつくり出された絨毛上皮細胞は、絨毛組織の内奥部に向かって徐々に押しやられながら赤血球母細胞となる(Photo1.腸造血の実態:自然医学の基礎p125)[17]

赤血球母細胞は、その細胞質の中に数十個の赤血球を内包している。この赤血球母細胞が認められるのは、体内において腸粘膜(絨毛上皮細胞のすぐ内側の部分)だけであり、骨髄はもちろん、他のいかなる場所にも存在しない[18]

つまり、食物モネラが絨毛上皮細胞に変わり、それがさらに赤血球母細胞に変わっていく。絨毛上皮細胞は決して固定的な細胞ではなく、食物モネラと一体化して、いずれ赤血球母細胞に発展していく予備軍の細胞なのである[17]

骨髄造血については、1925年にドーン、カニンガム&セイビン、1936年にジョルダンが絶食状態のハトやニワトリで実験し、骨髄組織から赤血球が生まれることを発見して骨髄造血と規定した。この現象は、絶食という腸造血が抑制された場合の代償性組織造血(赤血球の逆分化による)のひとつである[11]

森下は、骨髄血管の結紮実験では貧血が起こらないことを確認し、次に腸の壁を腐敗させると貧血が起こることを実験的に証明して、骨髄造血説を否定している[9][14][11]。加えて、個体が成熟するにつれて、生体内の骨髄組織はほとんど脂肪化するにもかかわらず、成熟後も多量の赤血球生産の要請に応じて、顕著な造血機能が日夜営まれている矛盾に疑問を呈している[11]

Ⅱ.細胞新生説[編集]

食べ物が腸の粘膜で赤血球という細胞に変わり、赤血球から白血球が新生される。赤血球が体の中を循環して、白血球の特に顆粒白血球が体細胞に分化していく。すべての体細胞は血球の分化によって増殖し、変化していく。

食べものが材料となって腸でつくられた赤血球は、きわめて原始的な細胞である。だからこそ赤血球の中には何十種類もの酵素があり、しかも、エネルギーがプールされている。したがって、赤血球が成熟し切った細胞であるという一般的な考え方は医学的な常識では説明がつかず、これまでの考え方が間違いだといえる[19][20]

森下は、そうした現象を動画撮影で示すため、自身で発明した自動撮影装置で得られた連続写真(PLATE Ⅻほか)を、昭和33(1958)年9月20日、第127回東京生理学談話会で初めて公開した。

その後、このフィルムが公開上映された主な学会は、以下のとおりである[15]

  • 第146回 東京歯科大学学会(1958年)
  • 第37回 日本生理学総会(1960年)
  • 第152回 東京歯科大学学会特別講演(1960年)
  • 第8回 国際血液学会における科学新聞社主催国際懇談会

<PLATE XII:血球の起原p121>[21]

1 - 6:ヒキガエルの赤血球からリンパ球が新生する過程を示す(約90分)。矢印は、2個目のリンパ球の発生から移動を始めるまでを追ったもの。

1:中央やや左にみられるリンパ球は、右側の赤血球細胞質が分離してつくられたもの。赤血球の左上部に痕跡が残る。

2 - 3:この赤血球のその部分に、やがて小さな細胞質の球体が再び発生し(2個目)急速に増大生育してゆく(矢印)。

4:最初に生まれたリンパ球は、この時期に至りようやく活発なアメーバ―運動を始める。

5:新生しつつあるリンパ球(2個目)は、一定の大きさに達すると母細胞(赤血球)から遊離し、先に生まれたリンパ球と同じく移動し始める。

6:2個のリンパ球の新生によって、自らの細胞質の約1/2を失った赤血球は、さらに3個目のリンパ球産生を始める。

Ⅲ.血液の可逆的分化説[編集]

生理的な条件下では、食べ物が我々の体の中を流れている血液に変わり、この血液が体の細胞に変わっている。しかもコンディションのいかんによっては、体細胞から赤血球に逆戻りをするというような可逆的な関係が存在している[22]

ガン組織が増殖し大きくなっていくのは、体の中のすべての組織細胞が赤血球からつくられているのと全く同じように、赤血球がガン細胞に変わっていくからである。赤血球もしくは白血球がガン細胞に変化し、そうしてガンが増殖していく。発ガン要因は単一・特定のものでなく、複合・多岐にわたるが、それらはすべて生活条件の不自然さに求められる。異常を来した生理的要因と強く結びつき、これに悪影響を与える条件こそ精神的不安定と抑圧(ストレス)である[23]

ガン化の機序としては、発ガン要因によって組織呼吸酵素やカタラーゼなどの作用が阻害され、やむを得ず醗酵によってエネルギーを獲得している病的な組織細胞が、その局所の赤血球群を誘導することによって、それらがガン細胞化してゆく[24]。ガンに限らず病的な細胞は、食物が腸の中で腐敗するのが発端である。腸内で生み出された腐敗産物が、血液の中に吸収されて血液を汚す。その物質は血液と共に全身をめぐり、どこかの細胞にたどり着く。すると、そこの細胞に慢性的に異常刺激を与え、そこに炎症を起こす。腫瘍も同様に慢性的な炎症の一種であり、病気を治すためには炎症を消してしまえばよい。食物・血液・体細胞が、次元こそ違え本質は一体であることを考えれば、血液をきれいにし、炎症を治めていくための食事をすれば良いのである[25]

吉田肉腫を接種した動物の腹水を観察すると、赤血球からのリンパ球化が認められ、それらが融合していく。赤血球の融合塊がいくつかのブロックに分かれ、それと共に各ブロック内に核が形成されて、肉腫細胞へと発展していく(PLATE ⅩⅧ:血球の起原p142)[24]

こうした現象は、1965年7月発行「パリ・マッチ」というフランス最大の自然科学雑誌の中で、一流のガン研究者であるアルペルン教授が同様の顕微鏡写真を掲載し、『細胞の増殖のしかたは従来の考え方とは違うようだ。もっと小さなガンの種になる細胞が寄り集まって、一個の典型的なガン細胞に発展していくのだ』という説を唱えている[12][24][26]

従来の説が正しければ、ガン細胞は患者からいくらでも採取できるのだから、顕微鏡の下でガン細胞の分裂というものが観察されてしかるべきだ。にもかかわらず、ガン細胞のみならず、生体内各組織細胞における「細胞分裂像」は、実際の観察では稀な現象である。したがって、稀にしか観られない現象をもって、悪性腫瘍の顕著な増殖を説明することは不合理といわねばならない[24]

赤血球と体細胞の間には、すべて可逆的な関係があることから、ガン治療のためには、ガン細胞を赤血球に逆戻りさせる方法を試みればよい。そのひとつの方法として、絶食あるいは食餌療法を試みることでガン細胞を赤血球に逆戻りさせることは、理論的にも実際的にも可能である[27]

ウサギに餌を与えず、絶食状態にして観察すると、骨髄の脂肪組織が赤血球に逆戻りしはじめる。1個の脂肪球のまわりから続々と赤血球が出現し、脂肪組織は周囲から赤血球や赤芽球に置きかえられていく。骨髄の中にある巨核細胞も、絶食状態では解体してすべて赤血球に逆戻りしてしまい、巨核細胞が赤血球へと壊されていく過程が観察される[16][28]

血球の起原[編集]

昭和35(1960)年11月に開催された、創立70周年記念・第152回東京歯科大学学会総会での特別講演「赤血球はなにをしているのであるか?」の発表に向け、森下は上記3つの基礎理論の根拠となった研究論文を総括し、新学説の概要として「血球の起原」に纏め、総会直前の9月に出版した[2]

ここには、すでに10年ほど前から提唱している新しい血液理論(森下理論)を裏付ける研究内容と、実験・観察における顕微鏡写真(映画撮影を含む)を掲載している。

それらの研究過程において、生命の最小単位についても新たな発見を記している。

昭和35 - 6(1960 - 1961)年、森下の生理学教室において「血管外無菌血液」の終末変化を研究した。つまり、血液を無菌的な条件のもとで試験管の中に放置しておけば、最後はどのように変わるのかを追求するのが目的である。

完全に滅菌・無菌処理した特殊な試験管に無菌血液を入れ、滅菌空気の酸素を注入しつつ1 - 2ヶ月間培養して、大学の研究員をつかい詳細に探索した。結論として、無菌的な血液でありながら、実は赤血球の中に点状のバクテリア様の微小体が発生し、これが血漿の中でだんだん発育して球菌になり、かつ、桿菌にまで発展をするという事実を認めている(PLATE Ⅷ:血球の起原p100)[29][30]

森下はこれを「生理的ビールス」と呼んだ。実験的に細胞のある一部分を切り離し、そのちぎれた部分だけを上手く培養していくと、かなり長期に生命を保ち続ける。そうした実験からも、細胞を生命の最小単位とすることに疑問を呈している

ただし、後世で「生理的ビールス」よりもさらに小さな生命単位が発見される可能性もあることから、本研究の結論は「細胞は、さらに小さな単位からできている」とした[30][31]

生命の最小単位がこうした顆粒にあると理解すれば、バクテリアと赤血球の可逆的な関係、および赤血球、白血球、細胞との相互間にも、すべて可逆的な関係があることを説明づけられる。生命とは、現代医学が考えるよりも遥かに混とんとしてダイナミックなものである。この考えは、自然界での調和を重視した東洋医学に近い。


<PLATE VⅢ:血球の起原p100>[29]

  1. 生理食塩水を加えたヒキガエルの血液の凝固開始時。赤血球の細胞質は、放射状に樹状結晶をみせる。中央部の隆起は、赤血球の核である。
  2. 上記1の条件下における血液凝固の完了。赤血球細胞質の樹枝状結晶が、ちょうどフィブリンのように赤血球を絡めている。このような現象は、血液凝固に主役を演ずる要因が、赤血球とくにその細胞質であることを物語っている。
  3. 無菌的条件下で放置されたヒキガエルの赤血球。2 - 3日経過すると、赤血球の細胞質内に小さな液胞が多数発生し、その小液胞の個々に球菌様の微小体が現れてくる。
  4. この球菌(様微小体)の発生は、細胞質全域に及び、赤血球の崩壊をみるに至る。また、いくつかの球菌が連結して桿菌化する現象もみられる。
  5. 無菌的条件下で数日ないし1週間を経過した後の赤血球。赤血球の細胞質が球菌、次いで桿菌に変化していくため、赤血球細胞質が間隙だらけになる。なお、核も粒子化の傾向をみせる。
  6. 先の5からさらに数日を経過した場合。赤血球の細胞質は完全に桿菌化し、核のみとなる。その核もまた桿菌化しはじめ、やがて赤血球の形態は完全に消失してしまうことになる。

衆議院科学技術振興対策特別委員会「ガン問題」に、学術参考人として証言 昭和41(1966)年 -[編集]

森下は、衆議院科学技術振興対策特別委員会でガン問題参考人として招喚され、千島・森下学説による新ガン理論の概要を述べている。その内容は、「対ガン科学に関する問題」、「対ガン科学、農薬の残留毒性の科学的究明及び低温流通機構等に関する問題」、「食品加工技術に関する問題」と3回に及ぶ。

本委員会は、当時の衆議院議員であった齋藤憲三らが、様々な視点から広く人類のためのガン征服を前提として協力すべきとの考えで招喚した。しかしながら、当時の癌研究所長であった吉田富三は、ガン専門の研究者だけで討論をすべきと述べ[27]、初回しか出席していない。

吉田は化学療法(抗ガン剤治療)に多大な期待を寄せていたが、本国会証言の7年後に肺ガンで没している(享年70歳)。間質性肺炎も併発していたことから、化学薬剤を多用していたと察せられ、吉田もまた真摯な研究者であったといえよう。

第51回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第14号 昭和41(1966)年4月7日(木曜日)[編集]

本委員会で千島・森下学説による新ガン理論の概要を説明し、「そうした考え方を土台にして血液を浄化していくということが非常に大事なことであり、我々は何を食べても良いわけではなく、食べものの質は厳に吟味しなければならない」と述べている。

しかし当然のことに、臨床医たちにとって難解であったと思われる。その後、同年10月末に、「限られた時間内での概要的な話では、誤解されること無きにしもあらず」と、それまでの研究および講演内容を纏めた著書「血液とガン」を出版している。

案件:科学技術振興対策に関する件(対ガン科学に関する問題)

第58回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第6号 昭和43(1968)年3月21日(木曜日)[編集]

第51回国会で述べた森下理論は医療界から黙殺されたにもかかわらず、ここでも自身の科学的実証に基づき問題を指摘している。特にガンというだけではなく文明病対策として、大気汚染、栄養問題などもっと大きな観点を踏まえて考えなければ解決しないと証言している。

案件:科学技術振興対策に関する件(対ガン科学、農薬の残留毒性の科学的究明及び低温流通機構等に関する問題)

第61回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第14号 昭和44(1969)年6月12日(木曜日)[編集]

食品添加物を、人体に対する安全性の面から再検討してみるとの趣旨で、森下は学術参考人として招喚され、添加物摂取後の血液の色、胎児への影響ほかを、十数年の観察に基づき警告している。

もっと早く国が適切な手を打つべきであったが、監督指導機関と、食品加工メーカーと、消費者との三者がよく考えていかなければならないと忠告する。

特に厚生行政の無為無策の結果であるにもかかわらず、自然食運動などは栄養的に見ても全くナンセンスだという考えをもち、医事評論家の中にも同様の考えが見受けられる。そういう考え方が我々の健康問題を実はなし崩しにしているのだ、と厳しく批判している。

洗剤についても、皮膚を通して血液中に化学物質が浸透してくるという自身の調査結果から、日本では非常に考え方が甘過ぎるとして、有害の立場を表明している。

案件:科学技術振興対策に関する件(食品加工技術に関する問題)

自然医食の確立 昭和45(1970)年[編集]

利潤追求に走り始めた自然食運動と一線を画し、「自然医食」あるいは「自然医食療法」と呼び、真の健康づくりを展開していく。国際自然医学会、(社)生命科学協会、お茶の水クリニックを創設する[4]

お茶の水クリニックで臨床活動を開始 昭和45(1970)年[編集]

昭和45(1970)年、東京都文京区にお茶の水クリニックを開設[4]し、森下理論に基づく「ガン・慢性病の自然医食療法」を実践・指導する。内臓機能検査、血液検査、生化学検査、氣能検査、血液生態など、クリニックの規模に較べて検査室が充実しており、森下独自の体質判断を基に、森下自然医学理論に則って個々に合う玄米・雑穀・菜食の食事療法を指導した。受診者のほとんどはガンの末期で、西洋医学に見放された患者が多く快復していった[32]

昭和52(1977)年、米国上院特別委員会の委員長だったマクガバン氏が報告した疫学調査によるレポート(マクガバンレポート)の内容は、森下の自然医食が慢性病の治療食として正しいことを示唆している。

森下の経験では、大学の研究室時代に相談に来た当時の患者は、玄米ご飯を食するだけで的確な効果があった。クリニック開院時も同様であったが、年々食事療法だけでは有効性が低下するのを感じ、理学療法や、食餌内容を補う強化食品を開発し採り入れるようになる。この問題は、農作物の質が低下したことと同時に、人間の身体の質も悪化したといわねばならない。こうした傾向は、森下のみならず、ドイツの食事療法家も同様の感想をもっていた[5]

お茶の水クリニックは令和1(2019)年4月に閉院し、同年7月、東京都八王子市の森下国際長寿科学研究所の前下方に「森下米壽庵クリニック」として再開した。令和1(2019)年12月31日、直前まで国際長寿科学研究所で業務をこなしていた森下は、高地における寒冷の夜、浴室に向かいヒートショックにて永眠する(享年91歳)。翌令和2(2020)年4月をもって、森下米壽庵クリニックは閉院となる[1]

「森下・世界的長寿郷調査団」を結成し、世界的長寿郷の実地調査を開始 昭和50(1975)年[編集]

森下自然医学が永年推奨してきた「健康のための食形態」は、世界的長寿郷の長寿者たちの食事と矛盾しないはず、との考えから私財を投じ「森下・世界的長寿郷調査団」を結成して実地調査を始める[4]

滞在は一時的なものでなく、1ヶ所を約5年おきに繰り返し訪ね時系列でみていく。そして、「暮らす」という感覚で長期滞在をしなければ真の生活は判らない、と考えていた。それらの実地調査により、コーカサス、フンザ、ビルカバンバ等の100歳長寿者たちの食生活基本パターンと自然医食の食形態は同一であることを明らかにした[5]

昭和59(1984)年、中国の新疆ウイグル自治区の実地調査を行い、第4の世界的長寿郷と認定。平成3(1991)年には、中国広西・瑶族長寿郷の実地調査により、第5の世界的長寿郷と認定。共に、典型的な菜食(玄穀・菜食)であることも明らかになった[33]

西のコーカサスと東の新疆ウイグル自治区の両長寿郷を結ぶシルクロード沿いが、長寿ベルト地帯であることを確認し、「シルクロード長寿郷」の新概念を提唱する。それまでの訪問回数は48回にのぼる[5]

世界長寿郷の実地調査を繰り返すことにより、1970年代は150歳の長寿者が多数いたが、1980年代は140歳、1990年代は130歳、2000年代は120歳とだんだん短くなっていることを知る。彼らは死の直前まで畑仕事などを行い、身体を休めるがごとく人生を閉じる。長寿者たちの共通点は、食生活の基本的パターンが同一であるほか、生まれた土地の循環の中で生きている。世界長寿者の年齢が年々短くなっているのは、地球(環境)そのものが死に向かって歩んでいるのであろう[5][34]

最後(49回目)の世界的長寿郷調査は、森下91歳の令和1(2019)年11月30日 - 12月6日に行った、中国・広東省・梅州市での調査であった[35]

<全日本鍼灸学会雑誌:外部リンク>

第52回 全日本鍼灸学会学術大会(香川) 特別講演:世界的長寿郷の食生活


氣能(生命エネルギー)医学を開始 平成3(1991)年 -[編集]

森下が世界長寿郷の実地調査で学んだことは、長寿者は生まれた土地を離れず、自宅の近くに畑をつくり完全に自給自足している場合が多い。食べ物を買うという発想が無く、食べたければ自分で作る以外にない。彼らは気づいていないだろうが、土壌の生命エネルギーを、自分たちで栽培した農作物に移行させ、それを家族で食べて、また土に戻す。土壌の命、植物の命、動物の命、再び土壌へ、と生命サイクルが出来上がり循環している。この生命サイクルの循環こそが、長寿の条件である[5]

長寿国の水や食べ物を日本に持ち帰り、39項目の元素分析を行っても、それぞれ地域的な特性がバラバラで、共通する「長寿元素」というものは認められなかった。様々に精査を行ったが結論が出ないまま、何をやるべきかと考え、生命エネルギー「氣」というものを検索する必要があると考えた[36]

平成1(1989)年秋に、東京都八王子市に森下国際長寿科学研究所を開設し、翌年、ドイツで「氣」を測定する機械が開発され、アメリカを通して日本に入って来るらしいという情報が入った。まず当時のMRA(マグネティック・レズナンス・アナライザー)の新型を入手し、色々と検討しながらLFT、LFA、MAXと次々に入手して、最終的にMIRS(マース)2台を活用する[5]

本装置は人体を増幅器として介するため、日本全国から人材を集めテストしたが、安定した数値を得られなかった。結局、中国から政府を通して女性2名を採用している。森下は、寒冷の地で育ち、飢えを知る体質が望ましいようだ、と述べている。

森下は、これによる測定値を氣能値と呼び、森下国際長寿科学研究所の中に「森下氣能医学教室」を設置して、食物、動物、植物、鉱物などの氣能値(生命エネルギー値)を比較検討する。氣能値とは、現在一般的に波動と呼ばれているものと同義語であり、波動は量子理論により妥当なものであるが、当時これを採用する者は皆無であった[5]

氣能値による診断は、中国の特殊な医療氣功師が患者を一目みて病気を診断するばかりでなく、患者の髪の毛や写真でも診断が可能であるのと一致している。中医学では、これらを経絡理論で説明できるといい、医療氣功師は遠隔で治療も行う[5]

森下は科学者の立場から、目に見えない「氣」の世界であっても、数値化しなければ研究として前に進めることが出来なかった。その意味で、MRA式のラジオニクスによる数値化は必要不可欠だったといえる。

氣能値の測定で世界長寿国の生活用水を調べると、例外なく極めて高値を示し、東京の隅田川の水の10倍以上であった。そのほか土塩や長寿者の主食のナンなど、すべて氣能値が高く、長寿の条件(長寿因子)を見出すに至ったのである[36]

日本では、平成7(1995)年に北里大学分子生物学助教授の中村國衛が、アメリカのスタンフォード大学医学部病理学教授・内科医のアルバート・エイブラムスが開発した波動調整装置ERA回路を改良し、PRA-NK型装置を完成している。

本装置は医師にのみ販売され、同時に装置の臨床応用の研究を目的として日本量子医学研究会を発足させ(現・一般社団法人PRA臨床応用研究会)、成果を上げている[37]。同研究会理事の中村元信は、エイブラムスのいう「未知の波動」を、「個々の事象の背景に存在する何らかの量子レベルの波動的エネルギー現象」と述べ、氣功治療との比較検討を行い「手法に違いはあるものの、診断と治療の機序の本質は同一ではないか」と、論文「QRSを用いた生体共鳴療法における気の認知について」の中で考察している[37]

平成16(2004)年には、日本でいち早く波動診断を採り入れ実践してきた森下が、第6回日本量子医学研究会に招かれ基調講演を行っている[10]

経絡造血系の発見[編集]

森下は氣能医学を進めていくうちに、腸管造血と併せて経絡造血が存在するという考えに至った[38]

そのきっかけは、耳朶採血した血液を位相差顕微鏡で観察すると、赤血球、白血球、血小板のほかに、赤血球よりもはるかに大きな夾雑物(プラーク)と呼ばれるものが頻繁に見受けられる。こうした巨大な物質は、直径7 - 8μあるいはそれ以下という細さの毛細血管から出てきたものではない。したがって、巨大なプラークは細胞と細胞の隙間を通って出てくる非血行性移動であり、一緒に検出される耳朶採血の赤血球は、末梢血液ではないということになる。

現在の医学書では、末梢血管の先端部分は動脈血と静脈血の部分がつながって、ザルのようになった閉鎖系としているが、一部ブリッジは存在しても、末梢血管の末端は開放系だと考える。そうでなければ、耳朶採血によって巨大な夾雑物も共に観察される説明が付かない。末梢血管の末端に空間が拡がり、そこに血球や老廃組織などが混在しているとすれば、恐らくこの空間の血液を採っているのではないか[10]

巨大な夾雑物が末梢血液空間に出るまでに通る細胞と細胞の隙間(タイルの目地にあたる部分)は、以前は細網内皮系と呼んで医学教育でも教えていた。それは正体不明の全身的な網目構造であり、そこには特殊な細胞が詰まっていると教えられたが、それは夾雑物と一緒に老化細胞が移動していると考えるべきである。現在は、細胞外マトリックスといって毛細血管が分布しているとするが、これは主として皮膚、軟骨、骨、筋などの結合組織に関する知見であって、毛細血管壁や内臓組織などの細胞間隙についてはほとんどわかっていない[39]細網内皮系の特性は、貪食作用(老廃物、有害物)、物質貯蔵(蛋白質、脂肪など)、血液細胞の造成、免疫機能(抗体形成)などとされており、そうしたシステムを為す組織細胞の存在はあり得るというより、なければならないはずである[40]

夾雑物の中には血管系も多く観察され、それらを個々に波動測定すると、血管とリンパ管の混合型が観られる。時間の経過に従ってどちらかに分化していくであろう血管系夾雑物であり、これは、キム・ボンハン(金鳳漢)のオリジナルレポートからボンハン管のコードをつくりMIRSに入力した、ボンハンシステムに関する波動のどれかに必ず反応する。もともとボンハン管というものが根底にあって、そこから発生した血管でありリンパ管である。森下は、この血管系夾雑物をボンパ血管と名付けた。ボンパ血管は固定した管ではなく、生命発展しつつある途中の状態の管だと考えた[5][41]

ボンハン管というのは、1961年に平壌医科大学のキム・ボンハン教授が発表した革新的な経絡理論で、生物体には血管・リンパ管、神経系統とは全く異なる第三の脈管系統(経絡系統)が存在すると主張した。その後、各国の追試でネガティブデータが大勢を占め否定されたが、ボンハン管の内部には彼がサンアルと名付けた顆粒状の生命基本小体が循環するといい、サンアルが発展してバクテリアになったり細胞になったりすると考えていた。森下も同様な考えをもっており、生命の最小単位は細胞ではなく、ウイルス大の基本小体がバクテリアになり細胞に進化し、しかも可逆的な反応を示す。

血球も、最初はリンパ球と赤血球は混合型として同じ細胞であり、やがて分化していくのだから、これを血球原基とすればボンパ血管は脈管原基である。こうした脈管の中に、しばしば血球が認められる。これを氣能医学的に解析するとリンパ球と赤血球の中間を示し、つまり血球原基と考えられる。とするならば、経絡組織で血球が造られているということになる。恐らく、サンアル(生命基本小体)をベースにして、宇宙の生命エネルギーをつかって発展させ、血球を造っていくという可能性は充分にある[10][39]

経絡造血が行われると仮定すれは、2005年5月のフジテレビで放映された、ロシアの68歳の女性が過去5年間物を食べずに生きており、モスクワ民族友好大学の教授が調査したところ実に健康体で、内臓の組織と機能は驚くべき若さだったというのも説明がつけられる[38]。ときに報告されるこうした例は、何らかのきっかけで経絡造血優位にうまくスイッチしたのであろう。

森下は、ボンハン管の考え方を重視し、その中にDNAやヒアルロン酸ほか色々な物質が移動しており、そこに宇宙エネルギーがぶつかって細胞化現象が起こってくる可能性があるが、宇宙エネルギーを直接的に利用するという現象は、さらに色々な角度から検討しなければならない大きな問題だと述べており、道半ばであった[5]

森下自然医学の終幕と示唆[編集]

森下自然医学の組織は、森下の急逝と共に幕を引いた。森下理論の理解と価値の認識、そして後世に伝えようとする努力がなされないまま閉じられたことは、経営陣に恵まれなかったという学問上の不幸ともいえる。

しかしながら森下は、自身が第51回国会で参考人として証言した折、同じく参考人として同席していた当時の癌研究所長・吉田富三が紹介した、ドイツの「マックスプランク研究所の理想的な運営」というものに共鳴していたのかも知れない。

それは、「研究所というのは、科学者という人間中心主義」が伝統的な原則だという。研究所を新設するときに、世界のトピック研究をやるのではなく、国内に非常に優れた研究者がいれば、その人に研究所を与える。研究所はその研究者1代限りに与えるのであり、したがってそこで働く助手や研究者も、その研究所長が引退するときには同時に引退する。学問はそのときの科学者を中心にして進むのであるから、2代も3代も引き継がれて立ち腐れになるようなことは防がれている、というものであった[27]

たとえ対ガン科学に関しては意見が対立していたとしても、森下が吉田の紹介した研究所の在り方に共鳴し、科学者として心に深く留めていた可能性は充分にある。後継者をつくらず、組織の維持にも執着しなかったのは、そうした運営を是としていたとすれば頷ける。


森下は終生において、自然医学と現代医学は横の関係でなく縦の関係と述べ、根本から土台が違うため相容れないと考えていた。しかし、現代医学が細網内皮系の特性を明確にし、加えて経絡理論を採り入れれば、東洋医学と西洋医学が直結するという期待はもっていたようだ[5]

森下が腸管造血の研究で交流のあった千島から、のちに彼の牛乳推奨論や哲学(千島学説の八大原理)に同調しなかったことで攻撃された折、応戦すまいと黙しながらも、「自然がすべて解決してくれる」ともらしたという[9]

確かに、早くから腸内細菌の重要性に着目し[42]、当時は全く無視されていた食物繊維について、腸内細菌の繁殖に積極的に寄与しているはずとの指摘[43]や、ミトコンドリアの見解[31]、慢性炎症の概念[25]、万能細胞(細胞の多能性)の概念[44]、オートファジーの概念[22]、牛乳否定論[9]など、断片的な細部においては、徐々に発見されつつはある。

2018年11月29日、米コロンビア大学のメーガン・サイクス教授らの研究チームが、腸移植を受けた患者21名を5年間にわたって追跡調査し、移植された腸には造血幹細胞をはじめとする複数種の前駆細胞が存在することを突き止め、研究論文を幹細胞領域の専門学術雑誌「セル・ステムセル」で発表した。日本での腸管造血説の公表から実に50年以上も経っており、それでも主要な造血機能との認識には至っていない。


森下は、分析的医学といわれる現代医学の二大病理学説に早くから否定的であった[45]

ドイツのウィルヒョウが唱えた「細胞病理学説:病巣の観察から病気の原因を明らかにする」、フランスのパスツールが提唱した「細菌病理学説:病巣から細菌を検出することで病気の存在を証明する」は、いずれも病気の結果として起こった現象を検証することで、それを病気の原因であると位置付けしているからである。

このことは、結果としては事実でも原因の証明ではあり得ず、本末転倒だと述べている[46]。現代医学は病気を「悪」とみなし、攻撃あるいは排除するという疾病観であるのに対し、森下自然医学では、本来は病気にも存在理由があって、そこに至るまでの複雑な因果関係を研究しなければならないとしている。

そのためには、「健康とは何か」を理解する必要があり、医学というものは、生命科学に主眼を置いて研究・実践する学問であり、健康に関する学問でもあらねばならない[47]


森下自然医学のいう生命科学とは、生体の示す特有な生命現象を、生理学(働きのメカニズム)、解剖学(形態構造)、生化学(化学的な働き)が統合された視点から研究する学問である。

また、人間は自然界の生物であると同時に、特殊な社会をつくり上げ、その中で多大な影響を受けながら変遷を経ていることから、社会科学的歴史の法則に立った研究も求められる。

特に、受動的にも能動的にも「意識」をもっている人間は、「心の問題」も大きく、肉体と意識は相互に影響し合い、切り離して考えることはできない。

生命現象は総合的なものであり、便宜上細分化されている学問の総てが絡み合いながら同時進行しているのが現実であるから、統合的視点に立たなければ生命現象を把握することはできず、根治療法はなし得ないのである[47]


注釈[編集]

1、腸管造血説(千島・森下学説)に関する証言

※ 特別座談会:自然医学誌1982年(No.188)、『森下自然医学のあゆみ第二輯』1999年 に掲載

3氏の経歴は昭和57(1982)年当時のもの

  • 二宮信親:ラジオ日本常務取締役(元「読売新聞」記者)、大正11(1922)年 北海道生まれ
  • 松本雅之:医事評論家(元「医事評論」記者)、昭和4(1929)年 旧大連市生まれ
  • 鵜野誠:科学評論家(元「科学新聞」記者)、大正10(1921)年生まれ
2、氣能医学にまつわる参考資料

1)平成16(2004)年10月17日 氣能値・波動診断ほかに関する鼎談

  • 加藤襄二:志田医院院長
  • 松本英聖:医事評論家、保健科学研究所所長
  • 森下敬一:国際自然医学会会長、お茶の水クリニック院長

2)平成16(2004)年10月30日 第6回日本量子医学研究会(現・一般社団法人PRA臨床応用研究会)

  • 中村國衛:PRA-NK型装置の完成者(1995年)、医学博士(北里大学分子生物学助教授)
  • 門馬登喜大:IP生命医学研究所
  • 赤木厚史:健康研究会会長
  • 志水祐介:志水眼科
  • 森下敬一:国際自然医学会会長、お茶の水クリニック院長

3)平成17(2005)年1月23日 ナチュロパシー(米国自然医学)アジア代表

森下国際長寿科学研究所を見学時の座談会

  • 周徳愷:米国自然医学会東洋地区会長
  • 朴東基:韓国建國大学教授
  • 王暁東:中国南京中医薬大学客員教授
  • 何永慶:中華自然療法世界総会霊芝学術研究発展委員会
  • 蔡瑞龍:米国自然医学会東洋地区顧問
  • 松本英聖:医事評論家、保健科学研究所所長
  • 森下敬一:国際自然医学会会長、お茶の水クリニック院長

4)平成16(2004)年10月25日 森下国際長寿科学研究所において水の紹介者(渡辺、岸)との鼎談

森下博士 研究半生を語る(Yノート)

本鼎談は医学雑誌掲載には至らなかったが、取材者Yが録音テープのすべてを起こし記したもの。

上記1) - 3)についても同様の記録が存在する。

出典[編集]

  1. a b 国際自然医学会 (2020). “お知らせ”. 『自然医学』 2月号: 7. 
  2. a b c d e 『血球の起原(はしがき)』 生命科学協会、1960年9月10日
  3. a b 国際自然医学会 (2005). “ナチュロパシーアジア代表 高尾に集う”. 『自然医学』 6月号: 18. 
  4. a b c d 国際自然医学会 (1999). “プログラム”. 『第20回自然医学国際シンポジウム』: 22. 
  5. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 森下博士 研究半生を語る『Yノート』2004年10月25日
  6. a b c 『自然医学ワンポイントシリーズ3 健康補強食品』 アオゲラ通販、1986年6月20日、32-35頁。
  7. 『血球の起原(p62)』 生命科学協会、1960年9月10日
  8. 『血球の起原 (p83)』 生命科学協会、1960年9月10日
  9. a b c d e f g h i j 『森下自然医学の歩み第2輯(特別座談会)』 国際自然医学会、1999年
  10. a b c d e 国際自然医学会 (2005). “第6回 日本量子医学研究会”. 『自然医学』 3月号: 18. 
  11. a b c d 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、74-75頁。
  12. a b c d e 国際自然医学会 (2006). “新春対談 桜沢先生の遺産を未来へ向けて”. 『自然医学』 1月号: 18. 
  13. 『血球の起原(p25)』 生命科学協会、1960年9月10日
  14. a b 『血球の起原(p67)』 生命科学協会、1960年9月10日
  15. a b 『血球の起原(p127)』 生命科学協会、1960年9月10日
  16. a b c 『血球の起原(p86)』 生命科学協会、1960年9月10日
  17. a b 『自然医学の基礎(p125)』 美土里書房、1980年11月9日
  18. 『自然医学の基礎』 美土里書房、1980年11月9日、64-69頁。
  19. 『血球の起原(p58)』 生命科学協会、1960年9月10日
  20. 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、78-79頁。
  21. 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、119-123頁。
  22. a b 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、69-70頁。
  23. 『血球の起原(p136)』 生命科学協会、1960年9月10日
  24. a b c d 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、140-142頁。
  25. a b 『自然医学の基礎』 美土里書房、1980年11月9日、200-202頁。
  26. 『『自然医学の基礎』p228』 美土里書房、1980年11月9日
  27. a b c 第51回国会 衆議院 科学技術振興対策特別委員会 第14号”. 国会会議録. 2020年12月24日確認。
  28. 『血球の起原(p76)』 生命科学協会、1960年9月10日
  29. a b 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、100-101頁。
  30. a b 『血液とガン』 生命科学協会、1966年10月23日、15-23頁。
  31. a b 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、40-41頁。
  32. 『自然医学の基礎』 美土里書房、1980年11月9日、190-192頁。
  33. 『自然医学の基礎』 美土里書房、1980年11月9日、275-296頁。
  34. 『『自然医学の基礎』p260』 美土里書房、1980年11月9日
  35. 国際自然医学会 (2020). “特集3”. 『自然医学』 2月号: 40. 
  36. a b 国際自然医学会 (2004). “自然医学の歩みと21世紀の展望”. 『自然医学』 4月号: 28. 
  37. a b 一般社団法人PRA臨床応用研究会”. 一般社団法人PRA臨床応用研究会. 2020年12月24日確認。
  38. a b 国際自然医学会 (2005). “腸管造血、経絡造血、末梢血液空間、そして氣能医学へ”. 『自然医学』 12月号: 20. 
  39. a b 国際自然医学会 (2004). “自然医学の歩みと21世紀の展望”. 『自然医学』 10月号: 29. 
  40. 国際自然医学会 (2004). “自然医学の歩みと21世紀の展望”. 『自然医学』 8月号: 33. 
  41. 『『末梢血液・夾雑物の解析―特に「経絡造血現象」に就いて』p16』 国際自然医学会、2004年5月1日
  42. 『『自然医学の基礎』p203』 美土里書房、1980年11月9日
  43. 『自然医学の基礎(p307)』 美土里書房、1980年11月9日
  44. 『自然医学の基礎』 美土里書房、1980年11月9日、26-32頁。
  45. 『血球の起原』 生命科学協会、1960年9月10日、1-4、35。
  46. 『自然医学ワンポイントシリーズ1 健康の原理』 グリーンハートハウス、1985年5月5日、18-19頁。
  47. a b 国際自然医学会 (2006). “自然医学教室”. 『自然医学』 1月号: 74. 

参考文献[編集]

  1. 森下敬一『血球の起原』(初版・1960年9月10日)、昭和35(1960)年11月の「創立70周年記念・第152回東京歯科大学学会総会特別講演」に向けた研究論文総括と新学説の概要。
  2. 森下敬一『血液とガン』(初版・1966年10月23日)、昭和41(1966)年04月07日、衆議院科学技術振興対策特別委員会でガン問題参考人として招喚され、千島・森下学説による新ガン理論の概要を述べるも、概要では理解されがたいことから、それまでの研究および講演内容を纏めた著書。
  3. 森下敬一『自然医学の基礎』(初版・1980年11月9日)、自然医学の基礎理論(森下理論)を、論文集と違い解りやすくデータも交えながら纏めた著書。世界的長寿郷の調査内容も紹介している。


外部リンク[編集]