本因坊道知

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本因坊道知(ほんいんぼう どうち、1690年 - 1727年7月28日)は江戸時代中期の囲碁棋士。五世本因坊。名人碁所。坐隠談叢は「亞聖の大国手」と称賛する。

経歴[編集]

  • 1690年(元禄3年)、江戸本郷元町に生まれる。本姓は神谷である。母は大野氏、父は御小人目付小頭役の神谷十郎右衛門。温和にして沈毅であった[1]
  • 1698年、8歳で囲碁を始め、10歳で本因坊道策の門下となる。道策は池中のものではないと知り、常に座右に置く[1]
  • 1702年(元禄15年)、本因坊道策は臨終において13歳の道知を本因坊家の家督を継がせ、井上道節因碩を後見とし道知の今後の育成を託した。同年11月、始めてお城碁に出仕。林玄悦門入に先で7目勝ちとなる。
  • 1703年(元禄16年)に六段格の安井仙角四世に定先五目勝。
  • 1705年(宝永2年)、道知は品格大いに上がり上手(七段)の域に達したと判断した因碩はこの好成績を見て、安井仙角に今年のお城後では互先にしてほしいと書を送った。六段の仙角は本因坊家とは先代より競争の意あり、また道知が幼年であることを軽んじ、古来手割を改めるのは一局をもって行った例はないとし、昨年に勝ったからと言って直ちに手合を改めるのは早計で当を得ないと回答した。因碩はこの回答に怒り、寺社奉行本田弾正少粥に争碁を申し入れた。因碩は本田を訪問し事情を陳述したところ、本田は同情し、可憐な少年にしてこの技量を奇として、本田は仙角を呼び出し、道知の先々先(先相先)で十局の争い碁を命じた「宝永の争碁」。道知は罹病し全壊していなかったが、手合いを行うと主張した。第一局は宝永二年(1705)11月20日に行われたが、道知は病気のためか敗形が現れ、因碩は八つ時頃帰宅した。高橋友碩も同じ思いで、棋譜を調べると道知の負けは決定的に見え、回復の道なしと嘆息した。道知はこのまま終局すると負けになり、そうなれば家の浮沈に関わると秘術を尽くし、翌朝六つ時に1目勝ちとなった。因碩は道知の負けを予想し煩悶憂慮して就寝した。因竹は門人をして因碩に知らしめたが、因碩は勝報を直ちに信じなかったが、帰宅した門人の報を聞いて始めて確信し、狂喜した。道知が片岡因竹と帰宅すると、喜ぶこと限りなかった。この第一局は寄せの妙手(特に黒125、127は後世に有名な妙手である)として古来有名である。争碁の2局目は本田弾正少粥宅で朝五つ時から行われ、道知先番十五目勝となった。本田は胸中爽快となり、仙角に十五目負けとの証書に捺印させた。三局目は寺社奉行鳥居伊賀の守役宅で行われ、道知白番三目勝となった。翌日になり、仙角は本田弾正に願書を提出し、道知と互先の手合いを承諾した。
  • 1706年、後見人の道節と定先で十番碁を打ち3勝6敗1ジゴとなる。道知の後見を解くかどうかの腕試しと言われる。
  • 1707年、道知先相先で後見人の道節と七番を打ち、道知勝ち越しにより七段を認められた。
  • 1710年、琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子と向三子で対戦し、中押勝となる。この局は「下手ごなしの名局」として知られる。屋良里之子は薩摩にあって島津家召し抱えの棋士斎藤道歴、西俣因悦に二子を置くと容易に負けないことから本因坊に三子を置けば必勝と考えていた。因碩は大勢の門人を引き連れ、薩摩の守に謁見する。結果は先例通り、寺社奉行に書面で報告する。屋良に免状発行するために井上道節因碩を碁所に推した。道節因碩は屋良里之子に名人に対して二子の免状を発行する。島津家より白銀七十枚、巻物二十巻を道節因碩に贈る。
  • 1721年、井上、林両家の推薦を受けて名人碁所となる。
  • 1722年(享保7年)に甥の井口知伯を跡目とする。
  • 1727年(享保12年6月10日)、突然急病になり、死去する。38歳。本妙寺に埋葬される。

人物[編集]

  • その頃の御城碁は事前協議で勝敗を決める談合が多かった。道知の御城碁は先番なら5目勝ち、白番は2,3目負けと定型的な成績であった。
  • 井上道節因碩が亡くなり、碁所が空席になったことから道知が他の三家に名人碁所就位を望んだ際、三家から何の音沙汰もないことを怒り、道悦・算知の争碁以降は下打ちで合議により作碁し甲乙が出ないようにしていたが、これからは何人と対局しても作碁あるいは譲歩等の事前交渉を行わない、実際の勝負で決する旨を宣言したところ、三家は協議の上、林門入が三家の代表として本因坊道知を訪問し、因碩在世中の遅延はどうにもならなかったが、御城碁が近くなったので、本因坊を半石進めて准名人と届出し、翌年四月の登城時に碁所の願書を提出すると述べた。ついては御城碁では仙角因碩門入に持碁にしてほしいと申し入れた。
  • 1710年(享保6年6月5日、井上道節因碩に妨げられ名人碁所になるのが10年遅れたと門人に語る。32歳であった。

脚注。リファレンス[編集]

  1. a b 安藤如意 (豊次) 編(1904)『坐隠談叢 第二巻』安藤豊次