妙法寺 (堺市)

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妙法寺(みょうほうじ)は、大阪府堺市堺区中之町東の日蓮宗の寺。山号は長栄山。北向道陳が二畳半の茶室(現在は焼失)を建立したことから二條半の愛称で呼ばれる。

境内には道陳の墓碑と愛用していた手水鉢が伝わり、道陳の祥月命日にあたる毎年1月18日には、道陳忌茶会が営まれる。また、曽呂利新左衛門(豊臣秀吉の側近、落語家の始祖とされる)の350年忌碑がある。

微妙坊日祐(日蓮から京都布教の遺命を受けて妙顕寺等を開山した龍華院日像の直弟子)を開山とする泉州地域では最古級の日蓮宗寺院として知られ、1536年(天文5年)の天文法難に際し、妙顕寺が三代に亘って身を寄せた。日像は西日本中に『法華経』普及を行った数多くの弟子の中でも特に秀でた4人を直弟子と定め、その1人、日祐は師僧日像自刻の「帝釈天像」とともに 京都と繋がりの深かった堺布教を託され、日蓮による立教改宗(1253 年、建長5年4月28日)から90年後、日像上人による妙顕寺建立(1321年、元亨元年4月28日)から22年後にあたる、1343 年(興国4年)年4月28日に開創した。なお、同時期に大覚妙実(妙顕寺第二世)が、和泉国内に妙泉寺(和泉市、1341年)と妙光寺(泉佐野市、1358年)を開創してる。開創当時境内には、報恩坊、正善坊、慧龍坊、本行坊、久遠坊、法泉坊の6塔頭が置かれ、 1772 年(安永元年)に一山一寺制とされるまで 400年以上り六坊輪番制で住職が務められた。その後も泉州における法華経の布教拠点として、最盛期には妙顕寺の祖師堂を移築した本堂、妙顕寺の刹堂を移築した祖師堂、刹堂、帝釈天堂、三光堂、三十番神堂、稲荷堂、鐘楼門、番所等の諸堂が配置され、堺の町衆をはじめとする人々から帰依を受けた。天文年間(1532年-1555年)には、檀徒であった革屋道賀一族、石津屋宗栄一門、京屋道寿、北向道陳(千利休最初の師で、茶匠武野紹鴎の友、竹田定信(薬師院圓璡)の舅として知られる。) 等により再建されるも、1615年に、大坂夏の陣の兵火で焼失。現在地に再興されたのは檀家で豪商として知られる茶屋四郎次郎の助力と、地割奉行風間六右衛門尉 (堺市内旧跡に風間寺が建ち、墓は月蔵寺にある。)の計らいで、旧南宗寺の寺地を得てのことである。