大谷刑馬
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大谷 刑馬(おおたに ぎょうま)は、愛知県田原市浦町にある八幡社の石碑に刻まれている人物。関ヶ原の戦いの後、大谷一族を率いて田原市浦町に移住した。
石碑にはこのように刻まれている。
「文禄慶長の頃越前敦賀の城主大谷刑部関ケ原の合戦に敗れ自害する。その時に家臣の大谷刑馬一族郎党を率い御神体を奉持して浦町に居住する。」
大谷刑部(ぎょうぶ)とは、大谷吉継の事。
大谷刑馬とは何者か[編集]
大谷吉継にゆかりのある者には違いないが、大谷刑馬という人物に関する文書は見つかっていない。地域に伝わっている話しとして、大谷吉継の次男である木下頼継あるいは頼継の子孫が大谷刑馬ではないか、また、浦町に移って来た時期は関ケ原の合戦の後、20~30年後に伊勢方面から移って来たのではないかとの伝承がある。大谷刑馬が何者であるにせよ、田原市浦町には大谷吉継を祀る祠や墓、大谷一族に関する記録などがいまも現存しており、関ケ原の合戦の後、大谷一族が移って来たという事は事実と考えられる。