ローラ・ボベスコ

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ローラ・ボベスコ(Lola Bobesco, 1919年8月9日[1] - 2003年9月4日[2])は、ルーマニア出身[3]ヴァイオリン奏者。[4]

クラヨーヴァ[5]にローラ・ヴィオレタ・アナ=マリア・ボベスク(Lola Violeta Ana-Maria Bobescu)として生まれる[6]。作曲家兼指揮者であり、ヴァイオリンとピアノの教師であった父オーレルの手解きで3歳の頃からヴァイオリンを始め、6歳でブラショフで父の伴奏によりリサイタルを開くほどに上達した。1928年にはヨーロッパへの演奏旅行に行き、ウィーンで出会ったジョルジェ・エネスクの助言に従ってパリに留学するも、パリ音楽院の年齢制限に引っかかったため、エコール・ノルマル音楽院で1930年までマルセル・シャイエにヴァイオリンの指導を受けた。1931年からパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入り、1935年にプルミエ・プリを得て卒業している。1937年にウジェーヌ・イザイ国際ヴァイオリン・コンクールに参加して7位入賞を果たしたが、この時のボベスコ以上の上位入賞者について、2位のリカルド・オドノポソフ以外、ソ連から派遣されたコンテスタントであった。そのため、コンクールの結果発表後、彼らがすぐに帰国してしまい、結果としてボベスコがコンクールの上位入賞者として演奏活動に弾みをつけることが出来た。第二次世界大戦が始まるまでの短い間に、チェロ奏者のアントニオ・ヤニグロやピアノ奏者のディヌ・リパッティと三重奏団を結成。また、興行師のジャック・ギスビエンを通じてピアノ奏者のジャック・ジャンティとデュオを組んだ。第二次世界大戦中はフランスでレジスタンス活動をするジャンティを支え、1944年にジャンテイと結婚してブリュッセルに移住。1956年に離婚[7]したが、デュオとしての活動は維持した。1958年にはレ・ソリスト・ド・ブリュッセルを結成[8]。1962年から1974年までリエージュとブリュッセルの音楽院で後進の指導にも当たった。1980年に初来日後、数回にわたって来日公演を行った。1991年にはラルテ・デ・スオノ弦楽四重奏団を結成。

リエージュ州サルト・レ・スパにて死去。

脚注[編集]

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  1. アーカイブ 2021年3月16日 - ウェイバックマシン
  2. Bobesco, Lola - LC Linked Data Service: Authorities and Vocabularies | Library of Congress”. 2013年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月30日確認。
  3. (アーカイブ 2021年5月2日 - ウェイバックマシン)
  4. 1975年にベルギーに帰化。Waibinger, Michael 『Lola Bobesco』 Melo Classics、2018年、2-6頁(en)。テンプレート:EAN
  5. テンプレート:Archive.today
  6. Lola Bobesco spielt/plays Bach, Vitali, Vanhal, Mozart, Beethoven, Sa…”. 2021年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月2日確認。
  7. Lola Bobesco (Violin) - Short Biography”. 2021年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月2日確認。
  8. 1966年から「ワロニー王立室内管弦楽団」を正式名称とした。(アーカイブ 2021年5月2日 - ウェイバックマシン)