サンソン・フランソワ
サンソン・フランソワ(Samson François,1924年5月18日- 1970年10月22日)は20世紀フランスを代表するピアニストで作曲家である。
概要[編集]
フランス人の両親の間にドイツ・フランクフルトで生まれる。2歳からピアノを学ぶ。最初はイタリアでピエトロ・マスカーニに学んだ。最初の演奏会を6歳で開いた。1932年から1935年までニース地方音楽院 で学ぶ。フランソワは首席を得て、アルフレッド・コルトーの注目を得る。コルトーはパリのエコールノルマル音楽院でイヴォンヌ・ルフェブレに学ぶよう勧め、1936年に入学した。またコルトーにも師事する。1937年にコンサートライセンスを得る。1943年に19歳でロン・ティボー国際コンクール(ピアノ部門)に優勝した[1]。
演奏活動[編集]
パリのサル・プレイエルで最初のコンサートを行う。多数の演奏会を開催し、成功を収める。1951年に自分自身の協奏曲を作曲した。酒とタバコを愛していた。しかし酒とたばこは、彼の命を縮めてしまった。
来日[編集]
1956年、1967年、1969年と3回来日している。1956年は第6回フランス政府派遣文化使節として、汽船で夫人のジョゼットと初来日した。来日後は曲目変更のことでもめたという[2]
- 昭和31年11月10日(土)午後2時 日比谷公会堂
- バッハ 二つのコラール前奏曲とフーガイ短調
- ショパン バラード第1番、練習曲第2番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番
- フォーレ 夜想曲第2番
- リスト ハンガリー狂詩曲第8番、第6番
- 昭和31年12月6日(木) 東響定期 上田仁指揮 日比谷公会堂
- リスト協奏曲
- プロコフィエフ 協奏曲第3番
- 昭和31年12月10日(月)
- 日比谷公会堂
- バッハ(ブゾーニ編) トッカータ・インテルメッツォ・フーガハ長調
- ショパン 変ロ短調ソナタ
- ドビュッシー 12の練習曲より3曲
- プロコフィエフ ソナタ第7番
晩年[編集]
1968年に最初の心臓発作を起こし、1970年10月22日に心臓発作で亡くなった。享年46歳。
演奏[編集]
伝説のピアニストとも、ピアノの詩人ともいわれる。天才肌の常として、興に乗ったときとそうでない時との落差がかなり大きく、好きな作品だけを演奏する。 「好調の時は青天井で誰も到達することが出来ない(神の)領域」に入るが、不調の時は「耳を覆いたくなる時もある」とも言われる[3]。
ショパン、ラベル、クロード・ドビュッシー、シューマンを特に愛する。ベートーヴェンは「生理的に受け付けない」「ベートーヴェンは嫌いだ」とまでいい、あまり好きでなかったが、少ないながら個性的な演奏録音が残っている。最初の来日公演でもベートーヴェンは組まれていない。
ピアニストの青柳いずみは「(サンソン・フランソワ)技術より芸術性、知性より感性を尊重する」と評する[3]。