よみもの:干物妹!うまるちゃんの「うがった」感想

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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※注意:かなり「うがって」おり、また衒学的な感想です。 一般的な感想ではありません。感想というより「考察」に近いかもしれません。そして、衒学的な知識めいたものが、デタラメでないという保証もありません。


他人は、自分よりも多くの幸せをもっているように見える。
昔からそれは「隣の芝生は青い」という諺で表現されてきた。
この嫉妬心の構造は、(例えば何らかの<萌えキャラ>を触媒にすることで)プラスの感情にも反転できる。と『干物妹!うまるちゃん』を見て思った。


うまるちゃんの表情や声は本当に幸せそうで、見ているこちらまで幸せになる。
そしてどう考えても、私自身がコーラを飲んでゲームを見て主体として幸せを享受しようとするより、
他人(うまる)の行動を間接的に「見ている」方が幸せの度合いが大きい。
<私>が主体として幸福にならねばならない、という幻想から降りた方がむしろ幸福になるというのが気づきの1点。
もう1点は、観察対象が本当に幸せかは関係なく、より多くの幸せをもつ「ように見え」さえすれば、見てる側にとっては十分ということ。
そもそもうまるなど実在しないのだから、幸福を感じる主体は存在しないのだけど、百歩譲って実在するとしても「コーラなんて毎日飲んでるし、『ぷはー』と言って嬉しそうな表情をしても、それは一連の癖であって、毎回そんな新鮮な感動があるわけじゃないよ。」と本当は思ってるかもしれない。


本当はどう思ってるかなど関係なく、見てる側にとってはうまるは幸せなように見える。
そして見ることでこちらは「本当に」幸せになる。


ということは、よくある呟きのひとつ「自分だけが幸せならいい」という発言は欺瞞かもしれない。
偽悪、とかではなく、欺瞞。
つまり、発言した本人の真意がこもっていない、惰性でテンプレをなぞっているだけのコメント。


自分が感じる幸せは限界がある。
けど、他人の幸せそうな表情や声はただの表面的「イメージ」だから、いくらでもその裏にある幸福の度合いを過剰に想像して読み込むことができる。[1]
2次元キャラなら尚更かもしれない。
他人を媒介するほうが、より程度の大きい幸福を想像できる。


「自分だけが幸せ」になろうとすることは、結果的に幸せから遠ざかってしまうのではないだろうか。[2]
最後にもう1点、フィクションの効果について。
私が「隣の芝生は青い」的な嫉妬心をうまるに対して持たないのは、うまるが競争相手にならないのが原因だと思う。
私とは違って女性だし、高校生だし、何より実在していない。
嫉妬心を生まず、幸福の共振をしやすい、という意味ではフィクションのほうが、幸福生産装置として優れていることになる。


ふつうは「現実に起きた幸福」こそ、幸福の度合いが強いと思われている。
しかし、フィクションを経由するほうが、より幸福の度合いが大きくなる場合もありうるというのが、このアニメを見ての感想だ。


ところで、狭義での「萌えアニメ」はたいてい、若い女の子を主な登場人物にしている。
これは可愛いから癒されるということもあるだろうが、視聴者が「競争相手」と感じないような存在であるゆえに、
嫉妬せずに共振しやすい、ということもあるのではないだろうか。
もっとも、ここまでいくとうがちすぎかもしれないが。[3]


あ、そういえば前提条件を言い忘れていたけど、筆者は内うまる(小うまる)が一番好きです。


脚注的なもの
  1. 人間は結局、「他人の表面的なふるまい」を見て、それに対して一定のルールで反応しているだけであり、他人の内心を考える必要はない(そりゃそうだ)、というウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」に接続できる話かもしれない。
  2. 勿論「それって結局、他人を<利用>するかしないかの違いであって、自分だけが幸せになろうということは変わらないんじゃない?」といった反論は想定しうるが、面倒なので深入りしない。そもそも人間の行動は、全てエゴといえばエゴであり、別にエゴでないといえばエゴではなく、この禅問答に適切な解を与えるのは難しい。
  3. 例えば「若い女の子だって、若い女の子が出てくる萌えアニメを見て楽しむことがありうるだろう」など幾らでもツッコミの余地はある。

追記[編集]

上の文章を推敲するのも面倒なので、以下に付け足す形で思いつきを書いていく。


ラカンの「鏡像段階論」では、幼いときの人間は、自分の体に統一的な感覚をもっておらず、
統一的な「自分」の発見は、「鏡に映った私の姿」というイマジネール(想像的)なものを通して行われることになっている。


「自分」という感覚は、その起源からして、自分ではないもの(=鏡の中のイメージ)に囚われており、
そのために、自分の感情は他人に奪われている、と感じている。これが、ヒステリーなどの精神症状の元となっている、とラカンは語るわけだ。


生身の身体的感覚 に優先する、他人の姿。
これは幸福のあり方にも、同じ構造で影を落とす。
そして、言葉の問題もからんでくる。


生身の身体的レベルで感じる幸福が、一切ないとは言わない。
甘いものを食べれば甘いと身体的レベルで無条件に感じるし、これは私の体に固有のもので、他人に奪われているなどとは言えない。
しかし、言葉のはたらきは、その幸福レベルを遥かに超えた「ものすごい幸福」を、勝手に想像できる。
言葉には、物理的限界がないからだ。


生身の体で感じられる幸福には、物理的限界がある。
つまり、私本人がコーラやポテチを食べたら、多少は美味しいとは思うが、あくまで一定の限度がある。
しかし、その限度を超えた「ものすごい幸福」を、直接感じたことはなくとも、想定することができる。
私たちはその架空の幸福を、勝手に他人の身体のなかに読み込んでいる。[1]


そもそも幸福とは、他人のなかに勝手に「存在するもの」と見いだされるものなのである。
「毎日の生活がつまらない」と筆者はよく思っている。
しかしこの感想は、「今よりも幸せな状況」が世の中には存在するはずで、それが自分に訪れていないのだ、という考えに基づいている。
つまり、世の中の誰か他人は幸せをもっており、自分もその幸せを得られるはず、という順序で話が進んでいる。[2]


だから、私が直接感じる幸福こそが私の幸せ、というのは盲信である。
幸せは、そもそも存在しない部分が大きい、架空のものなのだ。
2次元を見て幸せになるのは、その起源からいって何も変なことではない。


幸福がそもそも架空のものである以上、あえて架空のアニメキャラのような媒介を経ることで、
その架空の幸せを、(疑似的にだが)私が生身で「本当に」体験できる、ということは上で既に述べたとおりだ。


そして、アニメ『干物妹!うまるちゃん』には、
物理的/身体的限界を超えた「架空の幸福」を、さも存在するように錯覚させるアニメ的演出が整っている。
その点で、このアニメは傑作である。
記号的な顔(表情)、BGMやSE、声優の演技、背景やエフェクト、といった形而上的(非物理的)な異なるレイヤーでの演出が同期することで、[3]
一つの「ものすごい幸福」の存在を、多角的・立体的に、視聴者にリアルに感じさせる。[4]


なお、当たり前のことを注釈しておくが、筆者があのBGMを聴きながらコーラを飲めばいい、ということではない。[5]
あのBGMは、うまるの(実在しない)感情を(さも存在するかのように)表現する次元において流れているものであり、実際にタイヘイやうまるが機械から流しているわけではない。
その意味で、あのBGMは物理的ではない。
視聴者が物理的・身体的にあのBGMを聴けるのは、本来「聴く」ことのできないうまるの内面(形而上的)を、
アニメスタッフが「聴ける」もの(物理的)と嘘をついて、変換・演出しているからである。


筆者は、うまるちゃんのアニメに感動し、うまるちゃんに萌える人なので、これを例にして語ったが、
優れたアニメ、ある人にとって強く萌えるアニメは、たぶん同様に優れた演出をもっているのだろう。[6]
たまたま筆者にとって語れる素材がうまるちゃんであったに過ぎないともいえる。
ただ、この作品が、主人公がひたすら幸せを満喫する話であり、それの視聴が視聴者にとっての主な楽しみであることを思い出すとき、
2次元の(=想像的な、=架空の)幸福を、疑似的に回収して、主体が直接幸福になるという戦略の好例であると思える。


ここから、ちょっと話が変わるが。
以上を踏まえて言えば、親にとっての「子供」とは、最強の萌えキャラといえるのではないか?


親は、子供の嬉しそうな姿を見ると、自分まで嬉しくなる。
あるいは、悲しんだり怒ったりしている姿を見ても、パワフルに沢山の感情をもって生きている姿が愛おしい、という意味で嬉しくなるかもしれない。
しかし、子供が本当にものすごい嬉しさを感じているか、など結局分からないではないか。


子供だって、ほんのちょっと嬉しかっただけの出来事を、さも凄く嬉しかったかのように母親に報告し、母親を喜ばそうとするではないか。


「大人に比べれば、子供は、色々な感情を強く感じているものだ」という大人側の勝手な妄想にすぎないではないか。


大人と子供の幸福、どちらが大きいかなど原理的には測定できない。[7]
親が勝手に子供の身体に、架空の幸福を読み込んでいるのである。


アニメキャラや(親にとっての)子供という存在は、無限の幸福を充填できる器を持っているように見える「架空の身体」を持っている。[8]


脚注のようなもの
  1. 鏡に映った姿や他人の姿=想像的なものと、言語=象徴的なものをハッキリ区別しておらず、どちらも(私の身体=現実的なものとは違うという意味で)曖昧に論じている点で、不十分なズルい論理展開ではある。鏡の姿や他人の姿は実在する時にしか見えないが(想像的なので)、幸福は見えていなくても隠れて実在しているように感じられる(象徴的なので「ない」ことに意味を見いだせる)。存在しない他人を勝手に思い描いて嫉妬することはほとんど有り得ないが(絶対に有り得ないとまでは言い切れない)、存在しない幸福を勝手に思い描いて嫉妬することはよくある話だ。本文で論じきれなかった「実在する他人の姿に、実在を越えた幸福を勝手に読み込みはじめる特異点」は果たしてどこにあるのか? それはあの有名な Fort-Da 周辺にあると思うのだが、筆者が素人ゆえによく分からないのである。教えて誰かエロイ人。
  2. 他人と比べる以外に、「過去の幸せだったときの自分」と比べて「今はつまらない」と考える場合もある、という反論があるかもしれない。この反論に対しては筆者は考えを保留しよう。ただ閃きの類はある。まず1つ目に、筆者は身体的に生身で感じる幸福の存在を全て否定しているわけではないから、過去に生身で感じた幸福と比較することもあるだろうと思う。両方の可能性を担保したところで、筆者の論はとりわけ破綻してはいない。次に2つ目に、結局「過去の自分」も想像的な他者の一種なのではないか、と考えることができる。本文の最後のほうに、親と子供のどちらが幸福かは比較・測定できないという事を書いているが、同様に、過去の自分と今の自分のどちらが幸福かは、本質的な意味では測定できない、と考えることが出来なくもない。幸せだった記憶は、現在の私が「仮構」して思い出しているものであり、その点で想像的なものだと考えられるからである。この「過去に遡って」という考え方は、ジャック・ラカンのトラウマに対する基本的考えでもある。また、純粋に哲学的に論じた本としては、永井均『転校生とブラックジャック』を読んでみるのも面白いかもしれない。・・・・・とはいえ、この考えについてはまだ確信はもてないので、保留しておきたい。
  3. 異なるレイヤーで同じ方向性の演出が同期することで、ある一つの感情がスムーズに誘発される、というのは斎藤環のマンガ論をパクった考えである。正しい解釈と敷衍かは分からないが、「誤読の自由」と逃げておこう。
  4. これは、ヴァルター・ベンヤミンが著書『複製技術時代の芸術』のなかで、映像カメラの新しい技術(スローモーションやクローズアップ)が人間の知覚が本来把握できない領域を開拓した、と語ったことの拡張解釈であるといってもよい。優れたアニメ的な演出が、それ以前には本来知覚不可能だった領域(=うまるの心の中)をリアリティをもって現出させるのである。
  5. 単純に楽しそうではあるが。
  6. といったものの、広義の「萌え」には色々なパターンがあるから、「キャラの強烈な内面に共感する」というパターン以外の萌えももちろんあるだろう。しかし、最近流行りの「日常系アニメ」の萌えキャラに限っていえば、皆この構造をもっていると筆者は考えている。また、感情がまったくないように見えるキャラクターも逆説的に魅力的となる。人間は機械ではないから、感情がまったく「ない」ということはあり得ない。もしありえるとしたら、過去の強烈なトラウマ体験によって感情を失った場合などであろう。無表情キャラは逆説的に「過去の強烈な感情体験」があったことを強く示して、読者・視聴者を惹きつける。そして、ここまでの論でわかるとおり、トラウマの「見せかけ」さえあれば、トラウマの「内実」は存在する必要はない。そもそも、アニメキャラに内実が実在してるわけなどないのだから。評論家・笠井潔が、幼少期にトラウマがあるはずのない人工的存在なのにトラウマ的徴候を見せる「綾波レイ」の魅力にふれつつ、精神科学的理論・実例を精緻に整理しながら「トラウマ的な徴候とはシミュラークル、ようするにオリジナルを欠いたコピーなのだ。」と述べていることは示唆的である。(『探偵小説と記号的人物』)
  7. 「大人には大人の苦労があり、子供には子供の苦労がある」とかいう話ではない。そもそも、他人の幸福の度合いを測定・比較することが根本的に不可能だということである。
  8. 文中に2回出てきた「持っている」のうち、1度目の「持っている」は後ろに「持っているように見える」と続き、2度目は単に「持っている」と言い切っていることにご注意いただきたい。