浅野幸長

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浅野 幸長(あさの よしなが、天正4年(1576年) - 慶長18年8月25日1613年10月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名紀伊和歌山藩の初代藩主浅野氏の第15代当主。弟に長晟長重正室池田恒興の娘。子は娘(松平忠昌室)、高原院(春姫、徳川義直正室)。

生涯[編集]

父は浅野長政で長男。幼名は長満。名は長継(ながつぐ)、長慶(ながよし)と名乗り、幸長と名乗ったのは慶長3年(1598年)以降のことである。生母は浅野長勝の娘・ややで、彼女は豊臣秀吉正室高台院の義妹である。誕生地は近江国長浜とされている。

天正17年(1589年)に従五位下左京大夫に叙任される。天正18年(1590年)の小田原征伐で父の長政と共に参陣し、3000の兵を指揮して武蔵国岩槻城攻めで戦功を挙げ、秀吉からその功績を激賞された。文禄2年(1593年)に父が秀吉から甲斐国を与えられた際には、幸長には16万石を分領の形で与えられている。文禄4年(1595年)に秀次事件が勃発すると、幸長の正室の姉が秀次の側室であったことから、連座が適用されて能登国津向に流罪となった。しかしかつて前田利家の5女と婚約[1]していた縁から利家の支援を受け、また秀吉の正室・高台院(北政所)の仲介もあり、慶長元年(1596年)には秀吉より恩赦を受けて罪を許されている。

慶長2年(1597年)からは慶長の役に参陣し、蔚山城籠城戦で大活躍する。朝鮮半島沿岸の日本軍占領地域東部最前線に位置する蔚山城築城を担当したが、城が完成する前に李氏朝鮮連合軍の攻撃を受けた。幸長は砲術家・稲富一夢の師事を受けた鉄砲の使い手で、自ら鉄砲をもって防戦に当たり、急遽駆け付けた加藤清正と共に味方が来援するまでの10日余りを持ちこたえたという。この際、幸長が用いた鉄砲はあまりに連射したために銃身に焼け色が付き、狐筒と名付けられて浅野家の家宝とされたと言われる。また、籠城中に食糧が尽きそうになった際にも自らはほとんど口にせず、小姓や衰弱の激しい兵卒に率先して分け与えるなど、部下思いの態度を見せたという。しかし戦後、論功行賞並びに蔚山城防衛からの戦略転換などで五奉行石田三成小西行長と深刻な対立を生じた。

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると日本に撤退し、以後は徳川家康の与党として属した。慶長4年(1599年)に前田利家が亡くなると、加藤清正・福島正則池田輝政加藤嘉明黒田長政細川忠興らと共に武断派七将のひとりとして石田三成を襲撃した。慶長5年(1600年)に徳川家康によって会津征伐が発令されるとこれに従軍し、その最中に三成が上方で挙兵すると東軍に属して反転西上する。そして岐阜城の戦い、本戦で活躍したため、戦後36万石に加増され、従四位紀伊守に官位も昇ったが、所領は甲斐国から紀伊国和歌山藩に移封となって、関八州から遠ざけられた。

以後は家康、並びに秀忠に仕えて江戸幕府の命令による名古屋城築城に参加するなど忠勤に励んだが、豊臣恩顧の大名で秀吉の縁戚に当たることから、大坂城豊臣秀頼と家康との関係改善にも取り組んだ。慶長16年(1611年)に京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を加藤清正と共に取り持つことに尽力した。

慶長18年(1613年)8月25日、和歌山城で死去した。享年38。死因に関しては梅毒と見られる。幸長は女歌舞伎に夢中であったという記録があり、これで感染したか、あるいは朝鮮の役の際に感染したものかと見られている。

子は娘2人だけだったため、長弟の長晟が跡を継き、福島正則改易後、浅野家は芸州広島に転封となった。元禄赤穂事件の原因を作った浅野長矩は次弟・浅野長重の曾孫にあたる。
芸州藩は長晟の子孫が繋ぎ、2代以降は徳川家康の娘の振姫の子孫でもある。幕末の最後の藩主長勲は1937年(昭和12年)まで生き、晩年「最後の殿様の生き残り」と言われた。また、天保の改革を主導した水野忠邦も6代藩主宗恒の曾孫である。

逸話[編集]

晩年に漢学の講義を受けているとき「人は心配事がある時は身を慎むので病気をしないが、安楽の時ほど油断して死を招く」という意味の孟子の一説を聞いて思わず膝を叩き「犬猿の仲であった三成がいた頃はそれに対抗するために身を堅固に守っていたが、しかし三成が死んでからは徳川に優遇され、不摂生となってこのざまだ」と嘆いたという。

脚注[編集]

  1. 婚約していたが娘が早世したため、結婚はしていない。