石田三成

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大義を思うものは、首をはねらるる前であろうとも命を大切するものだ。

 - 処刑直前のことば

石田三成の画像

石田 三成(いしだ みつなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名政治家豊臣氏の家臣で豊臣政権五奉行近江佐和山城主で19万石の領主。通説では関ヶ原合戦における西軍の首謀者とされている。関ヶ原での敗戦後、徳川家康により捕らえられて処刑された。

生涯[編集]

1560年出生。柿が好きであった。豊臣秀吉長浜城城主になった時、若き三成は近江観音寺内にて三献茶(ぬるい、熱い、生暖かいの三つ)を秀吉にすすめた。これが秀吉に気に入られ、秀吉の家臣となる。本能寺の変後、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小田原征伐などの有力な戦いでも参戦して秀吉を支え、勢力を広げていった。

1590年、天下統一を秀吉が成し遂げる。秀吉の天下統一後、文禄の役が始まった。この文禄の役で三成は秀吉に、参戦していた加藤清正小早川秀秋などの何らかの違反があるとして追放決議をする。しかし、秀吉の死亡によりこの違反報告は慶長の役と共に打ち切りとなった。

1600年関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦い大垣城の籠城戦で敵軍を破った。ちなみに籠城戦で勝利するという事例はあまりない。そして同年、細川ガラシャ邸宅を包囲した。細川ガラシャは信教の関係で自害することができなかった為、邸宅内に火を放って番人に自分を殺させた。そして関ヶ原の戦い脇坂安治小早川秀秋の謀反、長宗我部盛親の不動や吉川氏の内乱で関ヶ原の戦いにて敗戦した。同年に処刑され死去。享年40。尚、これが原因で悪者と称されることもある。

子孫[編集]

  • 三成の次男・石田重成は西軍に内通した津軽信建に助けられ、弘前に逃げる。
  • 重成の長男・杉山吉成(三成の)は弘前藩主の娘を娶り家老となり代々、杉山氏を称した。吉成はシャクシャインの戦いで活躍した。戦況報告で幕閣にも対面しており、徳川将軍家も三成の男系子孫の生存と津軽家の西軍加担を認識している。三代は杉山吉煕(三成の曾孫)。
  • 四代・杉山成武(三成の玄孫)は、前任の山鹿政実(山鹿素行の嫡男)の後を受け、筆頭家老となった。赤穂事件に先立ち、赤穂義士が吉良邸を襲撃した場合、津軽家は吉良救出の兵を派遣すべきと津軽信政に説いた。
  • 実際には筆頭家老の山鹿政実が黒石藩主に従い藩士を連れて吉良邸に掛けつけた。負傷者の救助と現場の復旧を支援している。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]