石原慎太郎

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石原慎太郎(いしはら しんたろう、1932年9月30日-2022年2月1日)は、作家・政治家。

人物[編集]

神戸市生まれ。弟は石原裕次郎。湘南中学校(のち湘南高等学校)で江藤淳と知り合う。一橋大学へ進学し、同人誌に参加、1955年「太陽の季節」で第1回文學界新人賞を受賞、そのまま芥川賞を受賞し社会的センセーションを巻き起こし、佐藤春夫が同作を批判するなど論争も起きた。同作は映画化され、「太陽族」が流行語となった。映画に端役で出演した弟の裕次郎は、水ノ江滝子のプロモーションで一気にスターにのし上がっていく。
その後も旺盛な作家活動のかたわら、政治思想的に右寄りになるが、天皇は崇拝していなかった。自由民主党から参議院に出馬して当選、次いで衆議院議員となり、福田派に属し、中川一郎らと青嵐会を作る。1970年、長編『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞受賞。76年には党からの懇請で美濃部亮吉が長期政権を続けた東京都知事選に出馬するが一敗地にまみれた。その後再度国会議員となる。ロッキード事件当時は、田中角栄に対して強く批判的な立場をとった。
1987年には弟の裕次郎が父と同じ52歳でがんのため死去。88年、ガンから生還する男を描いた『生還』で平林たい子文学賞を受賞。89年、リクルート事件後の混乱の中で、海部俊樹を談合で選び、形式だけ総裁選をやり林義郎を対立候補に立てる自民党のやり方に反発して総裁選に立候補、破れ、のちの議員辞職につながった。
89年、盛田昭夫との共著『「No」といえる日本』を刊行し、ベストセラーとなる。1990年、代表的名作とされる『わが人生の時の時』を刊行、野間文芸賞候補になるが、小説ではないと言われ落選。三島由紀夫賞選考委員をへて、95年から芥川賞選考委員となる。96年、弟・裕次郎を描いた『弟』を刊行してベストセラーとなり、毎日出版文化賞・特別賞を受賞。
1999年、都知事・青島幸男が一期で辞任したため都知事選に出馬、当選する。2000年、正論大賞を受賞。2011年、三期務めて都知事を辞任する考えを表明したが再度出馬したが、四期目の中途で辞任し、後任に副知事の猪瀬直樹を指名、猪瀬が当選した。2012年、円城塔が石原の反対を押しきって芥川賞を受賞したので辞任。同時受賞の田中慎弥が受賞記者会見で「都知事閣下の体調が悪化すると都民の迷惑なのでもらっといてやる」と発言したが、石原はむしろ田中を推したほうで、発言を聞いても「皮肉っぽくていいじゃない」と笑っていた。都知事時代は、「不法滞在している三国人が」など、いわゆる差別発言が多いとしていわゆるリベラル派から憎悪を受けていた。
宗教的には霊友会と近い関係にあったが、晩年は「法華経」に傾倒していた。2016年、かつての敵・田中角栄を描いた『天才』を刊行し、ベストセラーとなった。
日本芸術院に入りたくて、会員の吉行淳之介に訊いたら「芸術院では君を必要としていない」と言われた。文芸誌でも『群像』からはずっとパージされていたが、最晩年、親しい西村賢太の手引きで『群像』にも登場することができた。西村は石原の追悼文を書いたが、その翌日急死した。

親族[編集]

典子夫人との間に四男。長男・石原伸晃と三男は政治家となり、次男・良純は叔父と同じく俳優となった。
典子夫人のいとこの娘の夫は小泉純一郎の実弟なので、小泉孝太郎進次郎兄弟とも遠縁である。