江藤淳

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江藤淳(えとう じゅん、1932年12月25日-1999年7月21日)は、文藝評論家・作家。

人物[編集]

東京府豊多摩郡(新宿区)大久保町百人町三丁目三百九番地に生まれる。本名・江頭淳夫。なお死去まで1933年生まれと書いており、1932年としたものもあったが、世間的には33年生とされていた。祖父に二人の海軍将校がいた。二歳で母を失い、義母に育てられた。空襲で大久保の家を失い、のち強烈な反米家となる下地を作った。湘南中学(のち湘南高校)で石原慎太郎と親しくなる。慶應義塾大学文学部英文科に学び、57年卒論にロレンス・スターンを扱い、大学院へ進むが、教授の西脇順三郎にひどく憎まれていた。1955年、『三田文学』に「夏目漱石」を連載し、56年同作が東京ライフ社から単行本で出ると新進の文藝評論家として一躍注目を集める。慶大の同級生だった三浦慶子と学生結婚した。だがジャーナリズムに寄稿することを咎められて大学院は退学した。

同時期に世に出た石原、大江健三郎開高健らと同世代の文学者と見られたが、「戦無派」などとされつつ、定着した呼称はない。1959年『作家は行動する』などを次々に書き、61年『小林秀雄』で新潮社文学賞を受賞。1960年安保で「若い日本の会」に参加して活動するが、その後米国に留学しているうちに、敗戦国民としての意識から反米右翼に傾いていき、帰国後65年『アメリカと私』を書いて米国憎悪の一端を表す。67年『成熟と喪失ー”母”の崩壊』で、「第三の新人」の作品を論じつつ、戦後日本を、米国に陵辱された国としてとらえるとともに、それを母の喪失と重ね合わせ、米国が「戦前=母」を自分から奪ったという後年まで続く江藤の意識を表明する。

大江と犬猿の仲になった経緯は、64年『個人的な体験』をアップダイクの真似だとしたあたりから始まり、67年の『万延元年のフットボール』への批判で事実上決裂した。また73年には「三羽ガラス」と言われた辻邦生加賀乙彦小川国夫を「フォニイ」(偽物)と読んで話題になった。

東京工業大学助教授となり、のち教授。三島由紀夫の自決に対して冷淡な態度をとり小林秀雄と意見を異にする。1971年『漱石とその時代』第1,2部を書いて野間文芸賞を受賞。高階秀爾遠山一行古山高麗雄らと『季刊藝術』を創刊、『一族再会』などを書く。山本権兵衛の伝記小説『海は甦える』を『文藝春秋』に連載し、文藝春秋読者賞を受賞。NHKの明治もの「明治の群像 海に火輪を」の脚本を書く。76年、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した時、これを「サブカルチャー」と批判して話題になった。のちには村上春樹もサブカルチャーと呼んだ。

また博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶大に提出して文学博士となる。だが同書は大岡昇平から、漱石と兄嫁との関係は江藤の妄想に過ぎないと批判された。

その後、日本国憲法を米国が作ったことと、占領下米軍の検閲を問題にして渡米して調査などし『一九四六年憲法 その拘束』『落ち葉の掃き寄せ』などを書いたが、文壇は冷淡だった。1980年には文藝賞の選考委員として、同賞を受賞した田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を、アメリカに浸食された日本を風刺したものと見て絶賛したが、田中にはそんな意図はなく、のち90年の湾岸戦争で反戦署名に田中が加わった際失望を表明した。その発起人・柄谷行人は出発期に江藤派と見なされており、江藤は中上健次をかわいがっていたため、1982年に中上が谷崎潤一郎賞をとれなかった時、選考委員の吉行淳之介を「文壇の人事担当常務」と罵り、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』を旧制新潟高校で丸谷の同級生だった百目鬼恭三郎朝日新聞記者が新聞の一面で紹介したのを批判し(『自由と禁忌』)、親米派である山崎正和中嶋嶺雄粕谷一希を「ユダの季節」で批判するなどし、保守論壇から孤立していく。

1985年、蓮實重彦との対談『オールド・ファッション』を刊行したが、むしろ蓮実と大江との溝を深めた感もあった。1988年には新潮社三島由紀夫賞を創設して大江・江藤・中上・筒井康隆宮本輝を選考委員にしたが、第一回選評で大江は、江藤と同席する不快感を暴露した。89年に登場した福田和也を慶応の後輩として目をかけ弟子にし、三島賞も授与したが、福田は村上春樹を高く評価するなど、江藤と合わない行動もしていた。江藤は東工大を辞職して慶大法学部客員教授をへて新設の環境情報学部教授となり、福田を助教授に招いた。89年には永山則夫日本文藝家協会入会問題で中上と対立し、テレビ討論を行ったが、江藤の弁舌は振るわなかった。1991年、日本芸術院会員となる。

96年、定年まで一年残して慶大を辞め大正大学教授。東大比較文学の平川祐弘とは親しかったが、90年以来芳賀徹と険悪な関係にあり、芳賀も大正大教授になっていた。『南洲残影』で西郷隆盛を書いたが、その筆致には三島の自決を思わせるものがあった。98年、妻慶子がガンのため闘病後に死去。江藤も脳梗塞を患い、『妻と私』を書いてベストセラーになり、続けて「幼年時代」を連載するが、雷のなる7月末の夜、手首を切って浴槽に沈み自殺した。