後鳥羽天皇

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう 治承4年7月14日1180年8月6日) - 延応元年2月22日1239年3月28日))は、日本の第82代天皇[1](在位:寿永2年8月20日1183年9月8日) - 建久9年1月11日1198年2月18日))。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての皇族

生涯[編集]

即位前[編集]

諱は尊成[読 1][1]高倉天皇の第4皇子で、後白河法皇の孫、安徳天皇の異母弟にあたる[1]

治承4年(1180年)7月14日に五条町亭で生まれる[2]。母は贈左大臣正三位坊門信隆の娘・七条院殖子[2]

寿永2年(1183年)7月、源義仲の上洛に伴い、平氏安徳天皇を連れて西国に逃れた。この際、三種の神器も持ち出された[3]

安徳帝の後継擁立については、後白河法皇源義仲の間で意見が分かれた[注 1]

即位〜退位前[編集]

寿永2年8月に後白河法皇の詔により即位が実現した。しかし、三種の神器を平氏が持ち出していたため、しかも親王宣下も経ないで、剣璽[読 2]を帯びない法皇院宣のみによる、異例の即位となるとともに、安徳・後鳥羽の天皇が並び立つ異例が重なった[3]。この一件が後鳥羽天皇の生涯に負い目になった[1]

元暦元年(1184年)7月28日に大極殿が未完成のため、太政官庁で即位式を行なう。しかし即位時でわずか4歳の少年に政務は執れるわけがなく、実際は祖父の後白河法皇による院政が行なわれた。文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した際、三種の神器の内、宝剣のみは捜索されたにも関わらず見つからなかった[2]

平氏滅亡後は鎌倉を中心とした関東に勢力を張った源頼朝による勢力が朝廷にまで及び、文治2年(1186年)12月28日には頼朝の希望を容れる形で九条兼実内覧に任命され、翌年の3月には摂政近衛基通は解任に追い込まれて兼実が摂政に就任するなど、朝廷内部にまで親頼朝派が伸長していった[2]

文治6年(1190年1月3日に天皇は11歳で紫宸殿元服する。1月11日には兼実の娘・宜秋門院任子が入内し、4月26日に天皇の中宮になった。翌年の12月に兼実は関白に就任し、建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御すると朝廷の実権は兼実に移ることになった。
7月には後鳥羽天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命し、鎌倉政権を事実上公認した。しばらくは兼実の天下が朝廷では続き親幕政策が実施されたが、建久7年(1196年)に後鳥羽天皇の第1皇子である為仁親王の外祖父に当たる源通親が後白河法皇の寵姫であった丹後局(高階栄子)や承仁法親王(後白河天皇の皇子)と組んで巻き返しを図り、後鳥羽天皇は11月25日に兼実を関白から解任した。

上皇期[編集]

建久9年(1198年)1月5日に源通親を後院別当に任命し、さらに執事別当に任命するなどして自身の腹心にした。このため、朝廷は一気に反幕政策が展開されるようになる。なお、通親が権力を掌握したため、後鳥羽上皇は1月11日に通親の外孫でわずか4歳である第1皇子・為仁親王に譲位して上皇となり、為仁は土御門天皇となった[2]

源頼朝が建久10年(1199年)1月に死去し、通親も建仁2年(1202年)10月に死去すると、後鳥羽上皇は自身の乳母である藤原兼子を妻とする藤原宗頼、通親の弟である源通資、後白河院政時代に重用された葉室流の藤原光親らを登用した。しかし後鳥羽院政は後白河院政までの仏教的色彩や政治的色彩が非常に希薄で享楽的色彩が色濃く、正治2年(1200年)から御所の相次ぐ建設、火災にあった御所の再建をはじめ、寺社修築など膨大な土木事業を行なったり、上皇自身が各地へ御幸を繰り返したり、和歌や船遊び、競馬、笠懸、遊女の歌舞、狩猟、水練と遊興が非常に多く、当時から後鳥羽院政に対する専制に批判は強かったという。ただしこれら莫大な財政を支えるだけの経済力が当時の朝廷にはまだ存在したということでもあり、西国では政権は必ずしも鎌倉幕府に移行しているわけでも無かったといえる[2][4]

上皇は和歌の才能に秀でており、院御所内に和歌所を再興したり、『新古今和歌集』を撰したりと文化的な才能には秀でていた。『仙洞百首和歌』を自らまとめたりもしている。また、水練や競馬、笠懸についても自らが率先して行なったりした記録があり、自ら太刀を作成したりとかなり行動的な人物だったようである[4]

鎌倉幕府が第3代将軍・源実朝の時代になると、上皇は実朝に接近して自らの外戚である坊門氏坊門信清の娘を実朝の正室にした。さらに北条政子と通じて後継者のいない実朝の後は皇子を新将軍にする密約[注 2]を交わすなど幕府とは微妙な関係の内に推移していた。

源氏将軍断絶後[編集]

ところが建保7年(1219年)1月に実朝が公暁によって暗殺されて源氏将軍が断絶すると、上皇は次の将軍に皇子を送る約束を反故にした。これは実朝の死去により幕府が自己崩壊するのではないかという観測と、実朝の死の翌月に北条義時によって京都守護が設置されたことに対する反発と見られている。さらに実朝の死から2か月後に上皇が愛妾・亀菊に与えた摂津の荘園の地頭職の改補をめぐって北条義時と争い、義時が弟の北条時房に1000の兵を与えて上洛させることで拒否回答を示したり、上皇が抜擢した仁科盛遠の所領を義時が没収して上皇の所領返還要求を拒否するなど、後鳥羽上皇と義時の対立は最早不可避の段階まで追い込まれていた[4]

しかし上皇は拙速を避けるためか、摂関家出身で女系で頼朝の大甥の子である九条頼経を次期将軍として鎌倉に送り、いったんは朝幕関係も安定する。しかし院御所に西面の武士を設置したりした上皇は次第に討幕の意思を強め、承久2年(1220年)末から討幕計画を本格的に練るようになった。承久3年(1221年)5月には上皇による北条義時調伏の修法が行なわれ、さらに京都守護の伊賀光季大江親広らを味方に誘おうと調略を行なう。ところが光季は上皇の誘いを拒否し、これにより討幕経計画が露見することを恐れた上皇は一気に軍事行動を起こし、伊賀光季を誅殺し、親幕公卿の西園寺公経を弓場殿に拘束し、北条義時追討の院宣を全国に発した[4]

これに対して鎌倉では義時の子・北条泰時と弟の時房を大将にした9万の大軍を西上させたので、院宣に逆らう者などいないと高をくくっていた上皇方は対応が後手後手に回り、兵力の徴集も思うように進まず、6月になってようやく迎撃の軍勢を送るもその兵力は2万に届かない寡兵であり、6月5日に行われた合戦では上皇軍の士気は振るわず戦わずして逃亡する者さえ相次ぐほどであった。上皇は6月8日に比叡山延暦寺に赴いて僧徒の支援を得ようとするも拒否され、6月10日に京都に戻り残った軍勢を藤原秀康に預けて勢多・宇治・淀などで幕府軍を迎撃させるもいずれも敗北。6月15日に北条泰時が入京を果たしたため、上皇は義時追討の院宣を撤回して6月19日に上皇に味方した武士を追討する院宣を出さざるを得なくなる。6月24日には藤原光親藤原宗行源有雅などの院近臣が幕府の要求により身柄を引き渡されることになり、7月6日には上皇は鳥羽離宮に幽閉されて後鳥羽院政は強制的に停止され[4][5]、西園寺公経は復権。後高倉院が治天の君となった。

7月8日、上皇は出家して法皇となり、義時によって7月13日に隠岐への流罪が決められて出発することになる。8月5日に隠岐に到着し、以後は幕府の厳しい監視の下で海部郡刈田郷[注 3]御所で数名の男女の側近と共にわびしい生活を送った。この間、趣味の和歌の道をひたすら没頭したり、観音像を刻んだり、経文の書写をしたりしたという。上皇は幕府に京都へ復帰させてもらうことをひたすら望んでいたがかなうことはなく、延応元年(1239年)2月22日に崩御した[5]享年60。

遺詔により遺骨は京都の西林院に移され、仁治2年(1241年)2月8日に大原の法華堂に安置された[5]

延応元年(1239年)5月29日に朝廷は上皇に顕徳院の諡号を贈るも、怨霊が出現するなど不吉な世評が絶えなかったので仁治3年(1242年)7月8日に後鳥羽の諡号に改めた。また幕府も怨霊など不吉な世評を考慮して、宝治元年(1247年)に鶴ヶ岡雪ノ下の新宮に上皇を鎮祭した[5]

后妃・皇子女[編集]

脚注[編集]

読み方[編集]

  1. たかなり・たかひら
  2. けんじ

注釈[編集]

  1. 義仲は北陸宮を推挙した。
  2. 近年ではこの密約が公暁の実朝暗殺によるクーデター遂行未遂につながったという説が出ている。
  3. 現在の島根県海士町

出典等[編集]

  1. a b c d 尾崎 2014, p. 109.
  2. a b c d e f 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P218
  3. a b 笠原 2013, p. 205.
  4. a b c d e 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P219
  5. a b c d 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P220

参考・引用等[編集]

  • 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社1990年
  • 尾崎克之 栗原加奈夫 岡林秀明 常井宏平 『完全保存版 天皇125代』2128、宝島社〈別冊宝島〉、2014年2月23日、1st。ISBN 978-4-8002-2156-8
  • 笠原秀彦 『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』1617、中央公論社〈中公新書〉、2013年5月10日、27th。ISBN 4-12-101617-3
歴代の天皇陛下の一覧
現皇統および南朝方
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