川中島の戦い

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川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)とは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの11年間で、5回にわたって繰り広げられた甲斐国戦国大名武田晴信(のちの武田信玄)と越後国戦国大名長尾景虎(のちの上杉謙信)の戦いである。5回にわたって行なわれたが、その中で特に激戦として知られるのは4回目であり、川中島の戦いは第4次川中島の戦いをもって「川中島の戦い」と呼ばれることが多い。なお、川中島の戦いに関しては史料が少なく、『甲陽軍鑑』などに依拠せざるを得ないのが実情である。

5回の川中島[編集]

  1. 第1次川中島の戦い:天文22年(1553年)。
  2. 第2次川中島の戦い:天文24年(1555年)。
  3. 第3次川中島の戦い:弘治3年(1557年)。
  4. 第4次川中島の戦い:永禄4年(1561年)。
  5. 第5次川中島の戦い:永禄7年(1564年)。

川中島に至るまで[編集]

武田側[編集]

武田信玄像。

天文10年(1541年)に父の武田信虎を追放して武田家当主となった武田晴信は、父の信濃国侵攻作戦を継承し、信濃国守護小笠原長時諏訪郡領主の諏訪頼重、そして北信濃の葛尾城主・村上義清などと戦っていた。これらのうち、小笠原氏諏訪氏は平定したが、村上氏には手こずり、天文17年(1548年)の上田原の戦いや天文19年(1550年)の砥石崩れなどで大敗を喫した。しかし天文20年(1551年)に戸石城が武田氏の家臣・真田幸隆によって陥落すると村上氏の勢力は急速に衰退し、さらに村上方の小岩岳城平瀬城も陥落する。

天文22年(1553年)になると武田晴信は大規模な村上攻めを開始し、4月1日には苅屋原城を攻めて翌日に攻略し、さらに同日に塔原城を落とした。この勢いに村上氏の家臣も動揺し、4月5日には埴科郡屋代氏塩崎氏などが武田氏に降った。この晴信の勢いに村上義清は抗戦能力を失い、4月8日に葛尾城を捨てて越後春日山城主の長尾景虎を頼って落ち延びた。また同時期、北信の豪族である高梨政頼島津則久井上清次須田満親ら晴信に所領を追われた面々も長尾景虎を頼っていずれも旧領回復の支援を要請し、ここに武田晴信、長尾景虎の衝突は避けられないものとなった。

長尾(上杉)側[編集]

上杉謙信(月岡芳年作)。

越後国では長尾景虎の父・長尾為景が同国の守護・上杉房能下剋上により葬り、その房能の従弟に当たる定実を傀儡守護として担ぎ出し、事実上の支配権力を掌握していた。しかし、成り上がりの為景に反抗する勢力も決して少なくは無く、特に定実の親族である定憲が反乱を起こし、これに長尾氏の一族が加担するなど、越後国は混乱の状況を呈しだした。

天文5年(1536年)頃には老齢の為景もさすがに衰えが見え始めたため、嫡子の晴景に家督を譲り、また末子の虎千代を林泉寺に入れて僧侶とした。天文11年(1542年)に為景が亡くなると、もともと病弱で器量も乏しかった晴景に対して越後の反長尾勢力が一気に立ち上がる。晴景は天文12年(1543年)に虎千代を還俗させて景虎と名乗らせ、反長尾勢力の平定に当たらせた。景虎は反長尾勢力の中心であった黒滝城主・黒田秀忠を討ち取り、越後をほぼ平定する。この戦果により、病弱で柔弱な晴景より優れた将器を持つ景虎を新しい当主にと勧める家臣団が現れ、今度は晴景と景虎の継承をめぐって越後は分裂することになった。

この兄弟の争いは守護・上杉定実が調停することで和解し、晴景は隠居し、景虎が晴景の養子となって家督を相続することになる。そして天文19年(1550年)には定実が継嗣無く病死し、新たな守護として征夷大将軍足利義輝より景虎が任命され、景虎は室町幕府公認の守護大名となった。

天文21年(1552年)には関東管領上杉憲政相模国北条氏康の侵攻を受けて越後国に逃れ、景虎に庇護を求めた。さらに信濃の村上氏・高梨氏ら諸豪族も旧領回復を願い、景虎に支援を要請した。北信平定後はさらに北上して越後に攻め入ることが濃厚だったこともあり、景虎は晴信との戦いを決意し、ここに川中島の合戦が始まることになる。

川中島とは[編集]

現在の川中島は犀川千曲川の間に介在する地域の総称である。しかし合戦当時は現在よりさらに広大な範囲を指していたとされ、現在の善光寺平の大部分を含めていたとされる。また、川に挟まれた地域は非常に肥沃な穀倉地帯であった。

合戦[編集]

第1回川中島合戦[編集]

天文22年(1553年)8月、景虎は越後から南下して川中島に進出し、布施一帯に陣を構えた。戦端は8月25日に開かれたが、このときは長尾軍が優勢で、先鋒を務める村上義清ら北信諸将の活躍もあり、9月1日には川中島南部の八幡城、上山田の荒砥城を落とした。9月3日には猿ヶ馬場峠を越えて東筑摩に侵攻し、長尾軍は青柳城虚空蔵山城なども落とした。しかし深入りを避けて景虎はそれ以上の南下を避け、晴信と対峙した。そして9月20日に景虎は越後に引き揚げた。

第2回川中島合戦[編集]

天文23年(1554年12月、景虎と戦うために背後を固めておきたかった晴信は、駿河国今川義元、相模国の北条氏康と甲相駿三国同盟を締結した。これにより、武田は全力で長尾に当たれるようになった。

天文24年(1555年)3月24日、長尾景虎は春日山城を出陣して犀川の北側、善光寺に近い城山一帯に布陣する。これに対し、晴信は犀川を挟んでその南岸に陣を構えた。晴信は以前より景虎の南下に備えて城山の南西に旭山城を築城していたが、景虎にとってはこの旭山城が非常に障害となった。決戦したくても、その決戦の最中に旭山城の城兵が打って出れば側面を突かれるからである。また、大大名の勢力圏の国境近くの国衆によく見られることだが、善光寺の別当・里栗田家は景虎に、もう1人の別当を称していた山栗田家は晴信についてそれぞれ家の存続を図っていた。このため、まずは旭山城を落として善光寺周辺を安定化させる必要があると見た景虎は、旭山城に攻め寄せた。そのため、この第2次川中島合戦は旭山城の戦いとも言える。晴信は景虎の攻撃に備えて旭山城に300挺の鉄砲を補給していたとされ、そのため景虎は旭山城を攻めあぐねた。とはいえこの攻防戦を除いては小規模な小競り合い程度があるくらいで、大きな衝突は無いまま200日が過ぎた。

晴信は同盟者であった駿河の今川義元に景虎との仲介を求め、その義元の仲介により、晴信と景虎は和睦して互いに兵を撤退させることになった。

第3回川中島合戦[編集]

弘治3年(1557年)、善光寺・上野原付近で武田晴信と長尾景虎は3度目の対戦を行なう。しかし小競り合い程度であった。このときは征夷大将軍・足利義輝の仲介を受けて、晴信を正式に信濃守護に任命することで両者は和睦した。

第4回川中島合戦[編集]

永禄2年(1559年)に晴信は入道して信玄と改名した。永禄3年(1560年5月、駿河の今川義元が尾張国織田信長を討たんと尾張に侵攻するが、桶狭間の戦いで信長に討たれた。これにより三国同盟に動揺が走ったことを見た景虎は、永禄4年(1561年)に関東管領・上杉憲政を擁して関東に攻め入った。関東管領の号令もあって関東の諸大名は景虎に靡き、北条氏康は小田原城に籠城する。景虎は10万の大軍をもって小田原城を攻めるが落とせず、1ヶ月の攻防戦の後に撤退する(小田原城の戦い)。その帰途、景虎は鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮において関東管領就任式を行ない、憲政の養子として正式に山内上杉氏の家督と関東管領職を継承し、憲政から一字を賜って名を上杉政虎と改めた。

景虎が関東に遠征している間、信玄は景虎に備えて北信に海津城を築城し、そこに高坂昌信を入れていた。信越国境が慌ただしくなったこともあり、政虎は永禄4年(1561年)8月8日、1万3000の兵を率いて川中島に出陣した。これに対して信玄は8月18日、2万の兵を率いて甲府を出陣し、8月24日には川中島に近い雨宮に布陣した。これに対し、政虎は妻女山に陣を構え、信玄もそれに応じて本陣を千曲川を挟んだ茶臼山に移した。茶臼山に信玄が本陣を置いたということは、妻女山にある上杉軍は退路を断たれたに等しかったが、政虎は容易に動こうとせず、8月29日に信玄は海津城に入城した。

『甲陽軍鑑』によると、このときの海津城の軍議において山本勘助が啄木鳥戦法を信玄に献策し、それが容れられたとされている。この戦法は武田軍を2つに分け、別働隊を夜陰に乗じて妻女山の裏から奇襲をかけ、上杉軍を山から追い落とし、その追い落とされた上杉軍を信玄率いる本隊が千曲川を渡河して八幡原あたりで待ち受けて殲滅するというものだったとされている。甲陽軍鑑によるとこの作戦を決行した日は霧が立ち込めていて、隠密行動を起こすには絶好の機会だったという。

信玄は別働隊1万2000人を高坂昌信・馬場信春飯富虎昌らに任せ、自らは8000人の兵を率いて八幡原へ移動した。しかし政虎は武田軍の動きを事前に読み取ったとされ、甘粕景持に1000の兵を与えて千曲川河畔に陣を構えさせて別働隊の動きを遅らせる作戦をとると、自らは残り1万2000の全軍を率いて八幡原を目指して突撃をかけた。このとき、江戸時代後期の歴史家である頼山陽が上杉軍の下山と渡河を「鞭声粛々、夜、河を渡る」と漢詩に歌っている。

こうして永禄4年(1561年)9月10日、八幡原において激戦が開始された。武田軍が8000人、上杉軍が1万2000人であった。『甲陽軍鑑』などによると上杉軍は車懸りの陣をもって武田軍に突撃したとされ、これに対して武田軍は鶴翼の陣で迎撃したとされる。『甲陽軍鑑』によると「其合戦(第4次川中島合戦)卯の刻(午前6時)に始まりたるは越後政虎の勝。巳の刻(午前10時)に始まりたるは信玄公の勝」としている。当初は兵力で優勢だった上杉軍が押していた。しかし信玄の嫡男・義信の奮戦などもあって上杉軍は完全に攻めきれず、そのうちに妻女山を攻めていた別働隊が異変に気付いて八幡原に後詰したため、上杉軍は挟撃されることになり、最終的に川中島北方へと撤退を余儀なくされた。

なお、この激戦の最中に武田信玄と上杉政虎が遭遇する形で一騎討ちをしたという伝承が『甲陽軍鑑』などにあるが、真実かどうかは定かではない。ただ、戦後に政虎が公家近衛前久に対して宛てた書状において「自身太刀討ちに及ぶ」とあるため、相当な激戦で総大将まで自ら刀を振るう必要があったのは確かである。

この激戦で武田軍の死傷者は約4500人、上杉軍の死傷者は約3500人だったとされる。ただ、上杉軍は主だった武将の討死が確認されないのに対し、武田軍では信玄の同母弟で副将でもあった信繁、親族の両角虎定、さらに山本勘助など多くの武将を失っている。

戦後、武田信玄も上杉政虎もどちらも自分が勝利したと周辺諸国に宣言しているため、どちらが勝利したかははっきりしていない。ただ、武田側にしろ上杉側にしろ、出されている感状などはかなり疑わしいものが多く、誇張の可能性もあるという。『甲陽軍鑑』や『川中島五戦記』など後代の史料でこの戦いが虚実を取り混ぜて描かれていることもあり、この第4回川中島の戦いは後代において大いに有名になったが、その一方で不明な点が多いのも事実である。

第5回川中島合戦[編集]

第4回川中島合戦後、武田家も上杉家もその際の被害が大きかったため、容易に動くことができなかった。このため、政虎が関東に拡大していた勢力は北条氏康によって奪回されてゆくことになる。

永禄5年(1562年)、政虎は輝虎と改名した。

第4回川中島の戦いの後、武田信玄は北信を平定すると共に、碓氷峠から西上野にも進出して上杉軍と対峙していた。これに対して輝虎は武田軍だけでなく北条軍とも対戦せざるを得なくなり、そのため戦いの舞台は関東に移り、北信戦線は小康状態を保つようになる。信玄は永禄4年(1561年)11月に上杉方の倉賀野城を攻め、永禄5年(1562年)11月には北条氏康・氏政父子と連携して武蔵松山城を攻め、永禄6年(1563年)2月に陥落させた。この間、輝虎は関東に何度も出兵するが思うような戦果は挙げられなかった。

永禄7年(1564年)3月、武田信玄は会津蘆名盛氏と連携して盛氏に上杉氏の越後の後背を脅かさせ、自らはその隙に信越国境に進出して野尻城を攻略した。輝虎はこのとき、関東に出陣していたがこの報告を受けるとすぐに越後に帰国し、野尻城の奪還に向かった。この際の5月から7月にかけて、輝虎は信越の寺社に数通の願文を捧げて信玄の悪行を非難している。そして7月末に善光寺平に着陣した。8月3日に川中島へ進出し、ここで信玄が来るのを待った。

しかし信玄は4度目の対戦で大きな被害を被ったことから挑発には乗らず、篠ノ井まで出陣するとそれ以上は動かず、持久戦の構えをとった。これが5回目の川中島合戦である。武田信玄と上杉輝虎の対陣は60日以上に及ぶが、特に大きな戦いもなく、10月1日に輝虎は冬で越後との通路が断たれることを恐れて春日山城に帰陣した。この際、輝虎は野尻城を奪回はしているが、結局上杉方の信濃の城として残されたのはその野尻城と飯山城だけであり、後は武田信玄の手によって平定されている。

これ以降、武田信玄と上杉輝虎は川中島で戦うことは無かった。

後年への影響[編集]

この戦いは戦国時代において屈指の激戦として現在でも名高いが、所詮は一地方の戦いに過ぎなかった。そのため、武田・上杉(長尾)双方ともに貴重な時間と兵力、国力を消耗した感は否めず、この武田信玄と上杉政虎の11年戦争の間に今川義元を討った織田信長が新たに台頭してくることになる。信玄は北信濃を支配下に入れたものの、川中島で貴重な時間と兵力、国力を消耗したばかりではなく、弟の信繁や山本勘助など多くの貴重な人材まで失っており、織田信長の台頭を食い止めることがそのためにできなかった。このため、この川中島は信玄・政虎に利せず、逆に信長と言う新興勢力への台頭に大いに役立つという皮肉な結果を生むことになった。

後に天下を取った豊臣秀吉はこの川中島合戦の様相を聞いて「(信玄も謙信も)無駄な争いをしたものよ」と評したと言われている。

関連作品[編集]

小説[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

ゲーム[編集]

外部リンク[編集]