戸石崩れ

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戸石崩れ(といしくずれ)とは、天文19年(1550年9月から10月にかけて行なわれた甲斐戦国大名武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清の戦いである。この戦いで勢力が劣る村上義清が武田晴信に大勝し、武田側は多くの将兵を失ったため、戸石崩れと称されたという。砥石崩れとも書かれる。戦場は現在の長野県上田市神科。一般的には戸石城の戦い(といしじょうのたたかい)という。武田晴信がその生涯において最大の大敗(2度目の敗北)をしたことで有名である。

概要[編集]

前段階[編集]

天文10年(1541年)に父の武田信虎を追放して家督を継承した晴信は積極的に信濃侵攻を進め、諏訪氏高遠氏を滅ぼし、さらに信濃守護小笠原長時を圧迫していた。しかし天文17年(1548年2月上田原の戦いで北信濃に勢力を誇る村上義清に大敗し、重臣の板垣信方甘利虎泰らを失った。

この大敗でそれまで晴信に圧迫されていた小笠原長時が信濃における反武田勢力を糾合して反攻に出るが、7月塩尻峠の戦いで晴信は長時を破った。そして天文19年(1550年)7月、晴信は松本平の林城にいた小笠原長時を攻めて同地を占領し、長時はわずかな家臣を連れて北信葛尾城の村上義清を頼って落ち延び、晴信はこれを追撃して小県郡まで北上した。

8月19日、晴信は大門峠を越えて長窪城に入城する。8月27日、晴信は海野口向ノ原に陣を移し、8月28日には戸石城下の屋降に本陣を置いたという。この晴信の勢いに北信の村上方の国衆は動揺し、北信の国衆との取次を真田幸隆が務めながら埴科郡清野氏高井郡須田氏、小県郡の望月氏などが武田方に内通した。

戸石城の戦い[編集]

当時、村上義清は北信濃で高梨政頼と争いをしており、武田晴信に対して当たる余裕が無かった。晴信の出兵はこの間隙をついて行なわれたものであった。義清は晴信に備えて小県郡に戸石城を築城しており、同郡においては最も堅城であった。このとき、戸石城を守備していたのは村上氏の家臣・楽厳寺雅方であったが、雅方はわずかな城兵をもって武田の大軍を相手に徹底抗戦した。

武田晴信は9月9日から総攻撃を開始したが、雅方と城兵は激しい抵抗を見せて容易に落ちなかった。武田晴信は3年前の志賀城の戦いで過酷な処置を行なって佐久郡など周辺の国衆や民衆から激しい憎悪を買っており、それがそのまま激しい抵抗につながったものと思われる。雅方らの抵抗に手を焼いた武田軍は包囲したまま9月末に及ぶが、その間に村上義清は敵対していた高梨政頼と和睦して本隊を率いて地蔵峠を越えて戸石城に向かって反転した(『高白斎記』)。村上義清は武田方の寺尾城を攻めてきたが、真田幸隆がその援軍に向かうも落城し、さらに10月1日に村上義清は戸石城の付近にまで到達したため、武田晴信は戸石城の包囲を解いて退却することを決定した。これは長期の包囲で士気が倦んでいたこと、戸石城兵の想像以上の抵抗で死傷者が出て武田軍が疲弊していたことも一因していたと思われる。

武田軍が退却を開始すると、雅方ら城兵が打って出て追撃を開始。さらに後詰に駆けつけてきた村上義清の本隊も追撃して武田軍は挟撃された。この追撃戦で武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松ら1000人余の将兵が戦死して大敗した。

戦後[編集]

武田側の戸石城の大敗により、小笠原長時は村上義清の支援を得て本拠への復権を果たそうと小笠原軍を安曇郡平瀬にまで進めた。さらに村上義清も11月8日小諸城に入り、11月13日には佐久郡の野沢城桜井山宿城を攻めてその城下に放火するなど、反武田勢力の反攻が始まる。これに対して武田晴信は11月14日に若神子(現在の北巨摩郡須玉町)まで出陣し、さらに家臣の駒井高白斎を海の口にまで派遣したが、それ以上は両軍とも積極的に動かず、晴信は11月19日に甲府に帰陣した。

その後も村上氏と武田氏の戦いは続いたが、もともと北信の村上氏と甲斐・南信を支配する武田氏では国力に大きな差があり、結局天文20年(1551年5月26日に武田晴信の家臣・真田幸隆によって戸石城は落とされ、これにより村上氏は没落し、やがて越後長尾景虎を頼って落ち延び、川中島の戦いの遠因となった。

戸石城は武田氏の小県郡支配の拠点として経営された。