高家 (江戸時代)

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高家(こうけ)とは、江戸幕府の式部官僚のことである。高家旗本(こうけはたもと)とも言われる。赤穂事件(忠臣蔵)の吉良上野介吉良義央)で有名な役職である。

概要[編集]

江戸幕府においては、1万石以上の武士を大名、それ以下は旗本、あるいは御家人と呼んでいた。しかし、旗本の中にも官位だけは大名に匹敵するものを与えられていた者がおり、彼らは幕政に関与した。これを高家と言う。高家の主な職務は儀礼の挙行、対朝廷工作、勅使の接待、寺社への征夷大将軍の代参などである。

元禄赤穂事件(創作では忠臣蔵)で有名な吉良義央などは、高家肝煎(こうけきもいり)であった。肝煎とは、高家の中でも老中に匹敵する官位を得ており、重要事項を処理する役目を担っていた者を指す。肝煎には常時3名が任命されて職務に当たり、これを三高(さんこう)とも呼んでいた。

高家の現代でいうところの職務手当は役高1500石であった。幕末慶応3年(1867年)に役高は米から役金に改められ、1500両となる。ただし、高家旗本が3000石の知行をもともと有していた場合は、役金は750両に下げられた。

高家に選ばれたのは、武家や公家でも名門と言われる家系の子孫が多い。もともとは28家だったが、前述のように忠臣蔵で有名な吉良家赤穂四十七士に討たれて改易。土岐氏も品行不良を理由に忠臣蔵から数年後に改易されて26家となっている。なお、明治維新維新立藩で虚偽申告をして遠江国堀江藩主となった大沢氏も高家であった。

今川義元織田信長など、有名な戦国武将の名門の家柄が高家に列しているのが特徴的である。

高家一覧[編集]

有馬家
村上源氏久我流。公家久我通名の子堀川広益を初代とする。徳川家宣に召し出される。500石。
一色家
公家唐橋在数菅原氏唐橋家)の次男の末裔であるが、足利将軍家一門の一色氏の養子となり足利義昭に仕えた一色昭孝(公家名は唐橋在通)を初代とする。家譜によると次の在種のときに改易されたという。1000石。
今川家
清和源氏足利氏流。駿河の戦国大名だった今川氏真の孫直房を初代とする。吉良家との血縁関係もあって、比較的早く高家として登用された。幕末の範叙若年寄に登用されている。1000石。
上杉家
藤原北家勧修寺流関東管領で足利将軍家姻族であった上杉家の末裔。上杉謙信の養子上条上杉政繁の養子で、能登畠山氏の子である畠山(上杉)義春の次男上杉長員の系統。後述の高家能登畠山家とは兄弟関係にある。1490石。長員の子から高家。二代目の長貞の寛文2年(1662年)の死亡は、院宣紛失のために自殺したともされる。
大沢家
藤原北家中御門家頼宗流。持明院基盛を祖とする。主に2家。他に大沢基宿家の分家2家も一時的に高家職に登用された。
  1. 大沢基宿は家康の将軍宣下の儀礼を司っており、実質的な高家の始まりとされる。3550石。維新に際して基寿堀江藩を立藩したが、後に石高を偽っていたことが発覚して華族から士族へ降格された。
  2. 基宿の次男持明院基定の曾孫大沢基貫を初代とする家。600石。
大友家(豊後守護家)
藤原北家近藤氏流豊後の戦国大名大友宗麟の孫義乗の子義親が高家として登用された。3,300石。元和5年(1619年)に嗣子ないまま死去し、一代で断絶した。
大友家
藤原北家近藤氏流豊後の戦国大名大友義統の孫義孝を初代とする。上記の家の断絶に伴い、再興運動が認められて明暦3年(1657年)に成立した。1,000石。
織田家
桓武平氏を称し、織田信長を祖とする3家。
  1. 信長の次男信雄の曽孫の信明以降が高家に登用。子孫2700石。
  2. 信長の七男信高の曽孫の信門以降が高家登用。2000石。
  3. 信長の九男信貞の子の貞置以降が高家に登用。子孫700石。
京極家
宇多源氏佐々木氏流室町幕府四職である京極家の、子孫の一系である高国宮津藩主のち改易)の嫡子高規を初代とする。1500石。
吉良家三河吉良氏
清和源氏足利氏流。大沢家とともに江戸時代初期から高家を勤めた。4200石。赤穂事件により改易された。のち家は再興されたが高家ではなくなった。
吉良家武蔵吉良氏
清和源氏足利氏流。三河吉良家とは遠祖を同じくする別系統である。元は吉良姓であったが、三河吉良家に遠慮して蒔田姓に改める(今川、品川両家の例のように、幕命とも伝わる)。蒔田義成が高家となり、その息子義俊が高家吉良家の絶家に伴って吉良姓に復する。1420石。
五島家(富江五島家)
五島盛清を初代とする。交代寄合(大名格)。清和源氏貞純親王(一説に平家盛)を祖とする。3000石。
品川家
清和源氏今川家の傍流。今川氏真の次男品川高久を初代とする。正徳3年(1713年)、範増の早世により一旦絶家するが、約1ヵ月後に血縁の信方により再興された。ただし1,500石から300石に減知された。
武田家
清和源氏義光流甲斐戦国大名武田信玄の次男海野信親の子孫である。信親の子・信道は大久保長安の陰謀に加担し、言い逃れが出来ず伊豆大島に流罪(上杉家臣の武田信清(信玄の末子)は弁明が認められ無罪放免)。孫・信正の時に赦免され、四代目(信親の曾孫)の武田信興徳川綱吉に召し出された。これを高家武田氏の初代とする。500石。
長澤家
藤原北家日野流。公家外山光顕の次男長澤資親を初代とする。徳川綱吉に召し出された。1400石。
土岐家
清和源氏頼光流。2家あり。
  1. 美濃守護大名土岐頼芸の次男頼次の子孫。頼次の子の頼勝から高家。宝永3年(1706年)8月18日、頼泰は飲酒による傷害事件により改易された。1千石のち分知して700石。
  2. 土岐頼芸の四男頼元の子孫。頼元の子の持益から高家扱いであり、次代の頼長が高家となった。1千石のち分知して700石。
戸田家
村上源氏久我流。公家六条有純の子戸田氏豊を初代とする。徳川家光に召し出された。2000石。
中条家
藤原北家長良流。公家樋口信孝の次男中条信慶を初代とする。徳川家綱に召し出された。1000石。
畠山家(河内半国・紀伊守護家)
清和源氏足利氏流。室町幕府三管領である畠山金吾家からの分家。 畠山政国畠山政長の曾孫)の曽孫で旗本の政信の子孫。政信の子の基玄以降が高家になった[1]。5000石。慶応4年(1868年)7月、基永は畠山姓を足利姓に改めた。
畠山家(能登守護家)
清和源氏足利氏流。 上杉謙信の養子上条上杉政繁の養子で、能登畠山氏の子である畠山(上杉)義春の三男義真の子孫。前記の高家上杉家とは兄弟関係にある。3120石。義真の子の代から高家。
日野家
藤原北家日野流。家康に近侍した公家の日野輝資の養子資栄を初代とする。徳川家光に召し出された。1530石。
前田家 (藤原氏)
藤原北家閑院流春日局の義兄三条西実条の子孫で、公家押小路公音の次男前田玄長を初代とする。徳川綱吉に召し出された。安土桃山時代の武将前田玄以との所縁により前田を称した。1400石。
前田家 (菅原氏)
菅原氏。上記の藤姓前田家とは別系統。公家高辻長量の次男前田長泰を初代とする。徳川綱吉に召し出された。武家の加賀前田家が菅原氏族を名乗り有名だったため、加賀前田家の許可を得て前田を称した。1000石。
宮原家
清和源氏足利氏流。古河公方足利高基の長男で、関東管領晴直の子孫(喜連川家とは別系統)。宮原義久以降、高家。1040石。なお、古河公方家の名跡を継ぐ喜連川藩主の喜連川氏春足利聡氏は、宮原家から喜連川家に養子入りしている。
最上家
清和源氏足利氏流。斯波家兼の子兼頼を祖とする大崎氏の分家。最上義光の子孫義智が一代限りの高家に登用された。5000石。のちに交代寄合となった。
由良家
清和源氏新田流とする。新田氏の子孫を称したが、実際は上野国新田荘横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏とされる。由良国繁が幕府旗本となり、孫の貞房以降が高家となった。1千石。維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流を巡って交代寄合岩松家と争ったが、岩松家が嫡流と認められて男爵となった。
横瀬家
由良貞房の次男横瀬貞顕を初代とする。徳川綱吉に召し出された。1000石。
六角家
藤原北家日野流。公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする。徳川家綱に召し出される。2000石。広賢から広治広豊広満(実父は日野資鋪)・広雄(実父は大沢定時)・広孝と続いた。二代目の広治は数々の不行状で何度か処分を受けている。

高家並一覧(表高家並一覧)[編集]

岩松家
新田氏一門。交代寄合の格式も持つ。120石。維新後に、維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流と認められて男爵となった。
山名家
村岡領主交代寄合山名氏と同流の山名氏。山名豊政の弟の豊義を初代とする。1000石。

脚注[編集]

  1. ただし基玄は徳川綱吉の側用人に任じられたため、一旦普通の旗本になっている。奏者番をも勤め加増を重ね、家禄は300石から5千石になった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]