藤堂高虎

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藤堂 高虎(とうどう たかとら、弘治2年1月6日1556年2月16日) - 寛永7年10月5日1630年11月9日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。「築城の名手」として知られる。

高虎は外様大名であったが、徳川家康の側近として、徳川家康だけでなく、家康死後の徳川秀忠、徳川家光からも信頼されており、徳川秀忠、徳川家光は高虎の屋敷を度々御成りしている。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪の父「藤堂源助虎高」、母「妙清夫人(とら)」の次男として誕生する[1]。父の藤堂虎高は鯰江城主三井出羽守乗絹の次男、母は藤堂一族の多賀良氏の娘であるが、藤堂忠高の養女となった。幼名は与吉(よきち)。通称は与右衛門(よえもん)。幼少のころから人並外れた体格で、乳母の乳では不足し、数人の女性の乳をもらったとされる[2]

浅井・阿閉貞征への仕官[編集]

元亀元年(1570年)、近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕えた。浅井氏の本城小谷城に入る。姉川合戦に15歳で出陣し、敵の首を取ったが、敗軍であったため恩賞はなかったされる[3]。 小谷城を出て浅井家を去った高虎は、同年、山本山城(長浜市)の阿閉淡路守貞征(浅井長政の家臣)に仕えた。阿閉貞征は喜んで迎え寓居を与えた。ところが阿閉貞征の家臣である阿閉那多助、広部徳平が下知に従わなかったため、両人を刺殺して、1573年、阿閉貞征を去り、浪人となった。天正元年(1573年)、小川城の磯野丹波守員昌に禄80石で仕え、員昌の上司である織田信澄(七兵衛)が佐和山城主となり磯野家の養子となったため、織田信澄の羽衣衆として仕えた。しかし何度も戦功があったが加増もなかったため、1574年に辞して再び浪人となった[4]

羽柴秀長への仕官[編集]

天正4年(1576年)、羽柴小一郎秀長に仕え、300石の録となる。与吉を改め、与右衛門とした。羽柴秀長の兄であった羽柴秀吉長浜城築城に従事する。また天正4年の安土城築城では築城奉行の一人であった羽柴秀吉のもとに、羽柴秀長とともに工事に入った。この工事では穴太衆(近江坂本の石工)と知り合いになり、石組みの方法を学んだと言われる。天正5年(1577年)、羽柴秀吉に従って、但馬攻めに参戦する。天正8年1月、三木城の名将「賀古六郎右衛門」が名馬に乗り、城中から打って出た帰路に高虎と出くわし、高虎は賀古の首を取った。その名馬を「賀古黒」と名付けて所持した。天正8年1月17日、三木城は落城した。天正9年(1581年)、但馬国で加保城・田和城を拠点として、小代一揆を鎮圧した。天正9年(1581年)、一色修理大夫の娘、久芳夫人と婚姻する。三千石加増となる。

天正11年(1583年)、柳瀬の役(賤ケ岳)の戦功により4600石となる。天正13年(1585年)紀州攻めでは秀長は和歌山に築城し、高虎は縄張りを担当する。10000石となり、紛川に館を構える。天正19年(1591年)、豊臣秀長が死去し、秀次の弟である豊臣秀保の補佐となった。

文禄4年(1595年)4月16日、主君の豊臣秀保が17歳で亡くなった。秀長・秀保と続けて主君を失った高虎は、その冥福を祈るため高野山に入り剃髪した。秀吉は高虎の武勇・英才・知略が非凡であることを惜しみ、高田小兵衛を使者として帰還を促したが固辞した。秀吉は惜しい人物と考え、新たに生駒親征を使者に派遣した。高虎は再三の誘いに応じ、京都で秀吉に面会した。秀吉は喜び、高虎に伊予国・宇和7万石を与えた。

慶長2年(1597年)、朝鮮出兵で高虎は水軍の将を命じられる。

家康への接近[編集]

天正14年(1586年)、秀長の命により京都聚楽第徳川家康の邸宅を造営する。 慶長4年(1599年)、豊臣秀吉の死去後に徳川家康と石田三成が対立したとき、前田利家の病気見舞いとして大阪に赴いた。石田三成が徳川家康に害をなすことを予想し、家康と乗り物を替え、先導して加賀の屋敷に赴き、その夜は自邸に迎え、伏見に向かうときも同道し、三成から家康を守った[2]。 慶長4年(1599年)、長越前守高連の娘を娶り夫人とした[2]。翌年に長男の藤堂高次を産んでいる。継室の松寿夫人のことで、鳥取城主に宮部善祥坊継潤の室であったが、継潤の死後に高虎と再婚した。

江戸時代[編集]

慶長5年(1600年)6月16日、上杉景勝を討つため、大坂を出発した[5]。7月19日には秀忠に従い、宇都宮に到着する。7月24日に家康が小山に到着したとき軍議があり、石田三成が上方で徒党を率い、謀反を起こしたと伝わる[6]。 慶長5年(1600年)9月15日、関ケ原合戦で東軍に参加し、高虎は黒糸威の具足と唐冠の兜をつけ栗毛の馬に乗り、諸隊を指揮した。大谷刑部吉継、平塚因幡守為広、戸田武蔵重政など西軍の豪勇と戦い、大谷隊を打ち破った。その後、西軍の右側から攻め入ったため、石田隊など西軍は敗走した。10月18日、戦功により家康より伊予国府中付近、宇和郡、越智郡、新居郡など12万石を加増された。

増田長盛は西軍の将であったが、西軍の諸将は敗戦により領地の没収・削減・転封があり、長盛の大和郡山城は没収されることになった。慶長5年(1600年)、高虎は、大和郡山城受取の命を受け、て大和郡山城へ赴くが、渡辺勘兵衛は閉門し拒否した。聞けば、勘兵衛は主君・長盛の命令で城を守っているので、長盛の命以外で守りをとけないという。長盛は高野山へ蟄居を命ぜられていたため出向くことができない。高虎は徳川家康へ願い出て長盛から城明け渡しの書状を入手し、それを見せて城の明け渡しは完了した。勘兵衛の行動は武士の意地と名誉を保つ行動と称賛され、勘兵衛を召し抱えた。

慶長11年(1606年)、江戸城の修築にあたり、縄張りを命じられる。2万石の加増。慶長13年(1608年)、外様大名ながら、親藩の尾張の近国の伊賀伊勢に転封となる。慶長19年(1614年)、大阪冬の陣に従軍する。元和1年(1615年)、大坂夏の陣木村重成長宗我部盛親軍と激突し、打ち破る。
元和2年(1616年)4月1日、病状が悪化した家康は高虎を呼び、世話になったが来世でお前に会えないのがつらいと落涙したとされる。そのため東照宮の造営奉行に高虎が指名された。同年8月20日、久芳夫人が逝去する。
徳川家康はかねてより天皇家と将軍家の一体化が必要であるとして、徳川秀忠と江の五女の徳川和子(後の東福門院)を後水尾天皇に嫁がせようとしていた。朝廷側は右大臣の近衛信尋、幕府側は近衛家と親戚筋にあたる高虎と京都所司代の板倉周防守重宗が交渉した。元和6年に和子が入内することが決まった。元和9年(1623年)11月19日、皇女一宮の興子内親王(のちの明正天皇)が誕生した。

寛永7年(1630年)10月5日、江戸柳原の藩邸にて74才で没する。遺骸は体中傷だらけで、弾傷。槍傷もあり、右の薬指・小指はちぎれていたという。高虎死没時、藤堂家の所領の安濃津藩は32万石で、高虎の後は実子の高次(慶長6年生まれ、母は松寿夫人)が藤堂家を相続した。

藤堂高虎が築城した城[編集]

築城に関わった城[編集]

  • 二条城 – 基本設計(図面作成)を担当する。
  • 篠山城 - 高虎は縄張りを担当した。
  • 江戸城 - 徳川家康より縄張りを命じられる。
  • 丹波亀山城 – 縄張りと石垣の普請を担当。
  • 和歌山城 - 修築に助言する。
  • 淀城 - 石垣工事の助言。加茂の石を搬入。
  • 伏見城 - 修復の助役。水郭の縄張り。
  • 膳所城 - 縄張りと石垣を担当する。

人物[編集]

「浅井長政→阿閉貞征磯野員昌津田信澄豊臣秀長豊臣秀保→(出家)→豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠徳川家光」と主君を替えたとされる。主君を何人も乗り換えているため、小説など創作物関係では評判が悪いが、逆を言えばそれだけ主君を見る目があったと評価することもできる。また、豊臣家臣期など、仕えた主君が早死にすることも多かった。

豊臣家→徳川家への主君替えについては、秀吉の死の直前に豊臣を見限り徳川家に仕えた、とする説が現在では主流である。高虎は元々家康と親交があって、家康の高邁な志を理解しており、他の大名たちは後漢末の劉表のようにただ領地を守ることに汲々としており、天下を治める事はできないが、家康は北宋の太祖・趙匡胤のような人物で、天下を治める力があると考えていたからだともいわれている。

6尺2寸(約190センチ)の巨漢であったと言われている。その巨体から武勇に優れ、姉川の戦いでは大いに活躍してその武功から多くの感状を与えられている。

二次創作の中の高虎[編集]

  • ある時5人の家臣(遊女好きの家臣2人と博打打ち好きの家臣3人)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。この時高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣は減知の上、百日の閉門として家中に残した。不思議に思った側近が尋ねると、高虎は「女好きは物の役に立たないが、博打好きな奴は相手に勝とうとする気概がある」と答えたという(南条範夫『武家盛衰記』)。

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  1. 福井健二(2016)『築城の名手 藤堂高虎(図説日本の城郭シリーズ4)』戎光祥出版、ISBN-10: 4864032254
  2. a b c 上野市古文献刊行会『高山公実録(藤堂高虎伝)』清文堂出版、ISBN-10: 4792404398
  3. 上野市古文献刊行会編(2002)『公室年譜略』清文堂出版
  4. 『諸家深秘録』24巻12冊
  5. 『関東軍記』
  6. 『寛永系譜』