蒲生忠郷

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蒲生 忠郷(がもう たださと、慶長8年(1603年) - 寛永4年1月4日1627年2月19日))は、陸奥会津藩の第2代藩主。父は初代藩主・蒲生秀行で長男。母は徳川家康の3女・振姫。正室は藤堂高虎の娘。官位は従五位下、従四位下、正四位下、正四位上、従三位参議下野守。実子なし。同母弟に忠知がいる。

生涯[編集]

織田信長の外曾孫。祖父は蒲生氏郷。外祖父は徳川家康。母方の伯父が徳川秀忠。従弟に徳川家光らがいる。

秀行の嫡子であり、幼名は亀千代(かめちよ)という。元服の際に伯父の征夷大将軍・徳川秀忠から一字をもらって忠郷と名乗る。慶長17年(1612年)に父が死去したため、家督を相続して藩主となるが10歳の幼少のため、藩政は母親の振姫と重臣の岡重政が担当した。しかし岡と振姫は主導権をめぐって争い、さらに蒲生騒動の余波から家臣団が再度争い、家康や秀忠もこれを心配して法度を示して目付を会津若松に下向させたりした。しかし紛争はやまず、家康は慶長18年(1613年)になって岡重政を駿府城に召還して死罪にしている。岡の死後、藩政は振姫が掌握し、振姫は寺社への寄進を多数行なったりした。しかし未亡人となった振姫は家康の命令で紀伊和歌山藩主・浅野長晟再婚することになったため、忠郷が藩政を行なうことになった。

忠郷は徳川氏との姻戚関係を重視して親徳川の政策を実施し、会津若松城内の豊岡に東照宮を、江戸に新たな屋敷を建築したりした。また黄金の茶道具で秀忠や家光を歓待したり、自らの屋敷に招いたりした。しかしこれらの出費が重なった上、寛永元年(1624年)には奥羽で冷害による飢饉が起こり、そのため忠郷は同年9月1日豆腐・おこし・などの売買、製造を禁止した。この禁令を破る者は家財を没収して死罪にし、密告を奨励するなど厳しいもので、さらに会津と江戸と生活の隔たりなどは非常に大きかったと伝わる。

寛永3年(1626年7月、同母弟の忠知が出羽上山藩4万石を与えられ、8月に家光に供奉して上洛し、正四位下参議に叙任される。その後、居城の会津若松城に帰るが年末に疱瘡にかかって倒れ、寛永4年(1627年)1月4日に会津若松城において急死した。25歳没。

墓所は福島県会津若松市高巌寺。法名は見樹院殿得誉玄光。

忠郷には実子がなく、しかも急死だったことから秀忠は書院番頭松平正綱堀直之跡部良保らを派遣し、会津若松城を浅野長重に、三春城内藤忠興に守らせた。そして2月になって家康の孫、秀忠の甥、そして将軍・家光の従兄に当たる関係から温情的措置が取られ、同母弟で上山藩主の忠知に伊予松山藩で20万石を与えることで蒲生氏の存続を許す処置をとった。また、会津には入れ替わりで加藤嘉明が40万石で入封した。