女帝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

女帝(じょてい、にょてい、にょたい)は女性の天皇または皇帝をいう。

初出[編集]

「女帝」という言葉は日本書紀古事記には見られない。初出年代を確実に言うことは難しいが、早い時期の史料としては757年養老律令がある。

凡皇兄弟皇子。皆為親王。女帝子亦同。以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。

(意味)天皇の兄弟皇子はみな親王の身分とする。女帝の子も同様に親王とする。それ以外は、いずれも諸王とする。親王より五世のものは王の称号を得るといえども、皇親の範囲ではない。

次に現れるのは、『西宮記』である。西宮記は成立年代不明ではあるが、969年頃成立説が有力である。

日免冠 天皇即位・朝拝・朝堂儀用之、女帝着宝冠、童帝着日形冠

(意味)天皇が即位するときは日免冠(冕冠)をつけて朝拝し、朝堂の儀を行う。女帝は宝冠をつける。童帝は日形冠(日形天冠)をつける。

次に1170年成立の『今鏡』には「姫宮を女帝にやあるべきなどさへはからはせ給ふ。」と書かれている。さらに平安時代後期(白河院政期)に成立した『大鏡』には「女御子を、聖武天皇、女帝(ひめみかど)にすゑたてまつりたまひてけり。この女帝をば、高野の女帝と申しけり。二度位につかせたまひたりける。」と書かれている。 1339年成立の『神皇正統記』に、孝謙天皇は「たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや」「則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。」と記載されている。 下って江戸時代の1723年(享保8年)の『百人女郎品定』に「女帝」という項目がある。なお神皇正統記では「女帝」を「にょたい」と読み、大鏡では「ひめみかど」と読んでいる。

 以上から、「女帝」は奈良時代から平安時代にかけて現れた用語と考えられる。

時代区分[編集]

小林敏男は古代の女帝の歴史を三段階に区分している[1]

  • 巫女王の時代
  • 女王の時代
  • 女帝の時代

古代より後にも女帝は登場しており、院政期、近世にみられる。

巫女王の時代[編集]

 卑弥呼台与(壱与)、神功皇后飯豊女王が該当する。

女王の時代[編集]

推古天皇皇極天皇斉明天皇持統天皇が該当する。

女帝の時代[編集]

 元明天皇元正天皇孝謙天皇称徳天皇が該当する。

院政期の女帝[編集]

 院政期には女帝は生まれなかったが、女帝即位の可能性のあった時期がある[2]。『愚管抄』『今鏡』『古事談』に記載された、1155年(久寿2年)の出来事である。近衛天皇が同年7月23日に17歳で逝去したため、実力者の鳥羽上皇は誰を次の天皇にするか悩んでいた。当時は次期天皇候補に4名がいた。雅仁親王(29歳)、八条院暲子内親王(19歳)、重仁親王(16歳)、孫王(守仁親王)(13歳)である。雅仁親王は鳥羽天皇藤原璋子(待賢門院)との間の第四皇子であったが、「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と書かれるように、遊興に明け暮れており、即位の器量ではないと考えられていた。暲子内親王は鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院である。重仁親王は崇徳天皇の第一皇子で母は兵衛佐局である。孫王は雅仁親王の第一皇子で、母は大炊御門経実の娘である。当時は9歳から覚性法親王のいる仁和寺で、僧侶となるため修業中であったが、「ちゑふかくおはしましけり」と評判が立っていた[3]

困った鳥羽上皇は藤原忠実藤原頼長には相談せず、藤原忠通に相談した。藤原忠通は臣下の口をはさむことではないと四度断ったあと、「29歳の雅仁親王がいるから他の案はない」と答えた。『兵範記』には当日、「王者の議定」が翌朝まで議定が行われたと記している。議論が紛糾したことをうかがわせる。関白藤原忠通が「雅仁親王を先に即位させ、その後、守仁親王に譲位する」案を示し、決着を見たとされる。中山忠能はその日記に父が存命なのに子が即位する先例はない、と書いている[4]

こうして1155年(久寿2年)7月24日に即位したのが後白河天皇(雅仁親王)であった。8月24日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下し、守仁親王として、即日、皇太子(のちの二条天皇)となった。このとき鳥羽上が暲子内親王に決めていれば、女帝として即位することになった可能性があった。

近世の女帝[編集]

中継ぎ論[編集]

井上光貞の中継ぎ論[編集]

女帝を中継ぎ論で解釈する研究者は多い[1]。その主張は井上光貞によれば、春日山田皇女推古天皇皇極天皇斉明天皇倭姫王持統天皇の6人はすべて皇族出身で、かつ天皇または天皇になり得る人の娘であり、すべて皇太后であったことが共通する[5]。すなわち天皇崩御の後、政治的事情によりただちに皇子の即位が出来ず、便宜上、皇太后が位に就いたとする[5]。なお、春日山田皇女は宣化天皇の崩御後に欽明天皇(即位の前)から即位を勧められたが、辞退したため即位はしていない。倭姫王は天智天皇の皇后で、天智天皇が病に倒れたとき、倭姫王の即位または称制説がある。また日本書記には大海人皇子(後の天武天皇)は倭姫王が即位すべきであると進言したと記される(『日本書紀』巻二十七)。

八世紀から女帝の時代となるが、井上光貞は元明天皇以降では先帝または前帝の皇后ではなくなったことが特徴とされる。その理由に「不改常典」を挙げる。これは令とは独立に規定された皇位継承法であるとし、皇位嫡系相続の理念が確立し、それ以前の兄弟相承的継嗣法からこの段階で確立したと主張する[5]。これは中国の男系主義的な継承法の影響とされている。これでは男系主義と女帝の即位は矛盾するようにみえる。これについて井上は元明天皇は草壁皇子の妃であったから、草壁皇子が存命なら皇后になり得るし、天皇になるべき聖武はこのとき7歳であったから、幼少のため即位できなかったとする[5]

女帝出現の社会史的意義[編集]

 井上光貞は律令法以前の社会慣行に従って女帝が出現したとする。702年(大宝二年)以降の現存籍帳では、まれな例外を除くと戸主は男子ばかりであるが、庚午年籍以前は母系制的傾向がみられることを挙げる[5]。例として、紀忍人は越智直の娘をめとり、その子が越智直を名乗った例(『続日本紀』延暦十年十二月条)、安倍小殿小鎌と秦首の娘との間の子は秦伊予麻呂と名付けられた例(『続日本紀』天平神護二年三月条)が挙げられる[5]

[編集]

  1. a b 小林敏男『古代女帝の時代』校倉書房、pp.126-147
  2. 荒木敏夫(1999)『可能性としての女帝』青木書店
  3. 『今鏡』第3 122段
  4. 『山槐記』1160年12月4日条
  5. a b c d e f 井上光貞(1965)『日本古代国家の研究』岩波書店、pp.223-236、pp.250-253