国文法

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国文法(あるいは国文法)とは、橋本進吉の文法理論を含む、伝統的な日本語の文法における系統のひとつである。

概要[編集]

いわゆる大東亜戦争のさなかの1943年に出版された旧制中学校(新制、すなわち現代の学制でいうと中三から大学一年生に相当する)向けの国定教科書『中等文法』に記されている日本語の文法をほぼ踏襲している。『初等文法』は橋本進吉の指導のもとに岩淵悦太郎が中心になって執筆されたもので、日本語の文法の歴史においては「橋本文法」に属す。いわゆる「学校文法」もこの系統である。
「生徒が言葉のきまりを暗記するのではなく、並んでいる例文を見比べることで、自然と言葉のきまりを発見できるように」という企画意図があったが、当時の世相を受けており(要するに、戦時色が強かった)、次世代の指導者にふさわしい教養ある日本人像を「将来あるべき人間像」として想定している。そのため、日本語を母語としない人を想定していないため日本語教育日本語処理の分野において要求される日本語の文法ではない。「精神的日本人だから日本精神をこの身に刻みつけたいと思ったけど日本語は辛うじて『かな』が読める程度」という人には「ごめんなさい」と頭を下げるしかない。誰もが前野良沢や杉田玄白や中川順庵になれるわけではないのだから[1]
とはいえ現代の高校生(とくにエリート校の学生)向けの文語文法としては現代でも充分に通用し、岩淵悦太郎が新制高校生向けに編んだ『文語文法』は現在でも通用する。「(平安時代の文学である)王朝文学よりも鎌倉から江戸期の文学のほうが面白い」みたいな高校生が、たまにピットフォールにハマッていたりする。

構文解析[編集]

この点が日本語文法との大きな違いである。 国文法は「何が・どんなだ」という形を正則とするため、「主語」「述語」の順を強調する。このとき述語は文末に位置するため、英語では「ファイナル・バーブ」と呼称されることもあった。これは韓国語、モンゴル語、トルコ語などの共通性の証左とされ、「大東亜共栄圏」を示唆するとともに、英語文法において述語に相当する動詞が主語の次に現れるのとは対照的であり、日本人の精神性を説明する際にも例として用いられた。 主語を示す格助詞は「は」「が」があるとされ、「とりたて詞」という概念は用いられなかった。「は」は文の主題(テーマ)を表す助詞としての機能を持ち、主格を表す格助詞であるとされた。主格=主題となる文では、「は」が用いられる。「が」は英語の主語と同じく動作主体を表すと言われた。現在の学校文法では、「単語の類別について理解し、指示語や接続詞およびこれらと同じような働きをもつ語句などに注意すること」と学習指導要領(中一)において定められている。第二学年では、文の中の成分の順序や照応、文の構成などについて考えること」「単語の活用について理解し、助詞や助動詞などの働きに注意すること」と定められているが、「已然形」を「仮定形」とするなど改変(GHQの指導か?)されたため破綻し、現在にもその悪影響は残っている。たとえば高校入試で出てくるのは“改悪され、骨抜きにされた橋本文法の、さらに劣化されたバージョン”なのである。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 読み筋は『解体新書』と『蘭東事始』である。

関連項目[編集]