千利休

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千利休
せんの りきゅう/せん りきゅう
千利休肖像.jpg
千利休。長谷川等伯画。
本名 田中与四郎
宗易
洗礼名 セント・ルカ
改名 田中与四郎→千宗易→千利休
別名 茶聖
通称 利休
愛称 茶聖
戒名 利休宗易居士
性別 男性
年齢 69歳没
出生名 田中与四郎
時代 室町時代安土桃山時代
誕生日 不詳
生誕地
死没地 京都
死因 切腹
肩書き 茶人
国籍 日本国旗.png日本
出身地
住居
墓所 堺市南旅篭町東・南宗寺(墓石は御影石製、五輪塔。)
民族 大和民族
職業 茶人
趣味 茶の湯
特技 茶の湯
改革 わび茶
創設 待庵不審菴など
活動期間 1539年?〜1591年
役職 茶人
身長 180cm
血液型 AB?
好物
苦手 秀吉
宗教 キリスト教仏教
罪名 切腹
実績 わび茶を完成させる
発明 わび茶
配偶者 宗恩
子供 千少庵千道庵など
田中与兵衛
補足 武野紹鴎と同じく戦いにも参戦している。
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千 利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

生涯 [編集]

父は田中与兵衛といい、和泉の豪商(魚屋)(魚屋名はととや)で、納戸十人衆の一人であった。祖父は千阿弥といい、室町幕府征夷大将軍足利将軍家同朋衆を務めていた。利休は祖父の「千」の字をとって家名としたという。14歳の時に念仏寺の修理の為に初めて歴史のの名に登場する事になる。17歳の時、利休は北向道陳に茶道を習い、書院の茶台子の茶を学んだ。武野紹鴎に師事して庶民的なわび茶を修めた。名も宗易(そうえき)と改め、茶道の修行に励んだ。

21歳の時に宝心妙樹と結婚する。翌年には火縄銃種子島に伝来し、この頃宗易も鉄砲を扱う様になった。23歳の時には「堺千宗易会」にて松屋久政に茶をもてなし、そこで「珠光茶碗」を用いた。珠光茶碗というのは胡麻をするときの器みたいな形(普通のご飯食べる用の茶碗と思ってくれれば大体合っている)の茶碗である。名前は村田珠光になぞらえた。34歳の時の茶会で、武野紹鴎や今井宗久を招いて茶会を開いたが、半年後に紹鴎は亡くなった。

永禄11年(1568年)に織田信長足利義昭を擁して上洛し、堺も信長に屈すると、宗易は茶道として信長の家臣となる。その際、今井宗久津田宗及と共に信長の茶道を務めて三宗匠と称された。この頃に完成させたわび茶について、次の様に残している(四既七則)。

茶は服のよきように 炭は湯の沸くように 夏は涼しく、冬は暖かに 花は野にあるように 刻限は早めに 降らずとも雨の用意 相客に心せよ

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、その後継者として政権を握った羽柴秀吉に仕えて筆頭茶道に任命された。また、秀吉の政治的なブレーンとして豊臣政権内において枢要な地位を得るようになる。天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないため、正親町天皇から居士号として利休の名を与えられた。天正15年(1587年)に利休は秀吉が開催した有名な京都北野大茶会で主役を務めた。しかし秀吉はこの茶会を1日で終了させた[1]。さらに天正18年(1590年)の小田原征伐においては右筆として従軍し、そこで花入「園城寺」を制作した。同年に追放されていた山上宗二と再会したことで秀吉は激怒し、宗二の首をはねた。

このように利休の豊臣政権内における地位は高かったが、その一方で石田三成淀殿増田長盛などの若手が政権内で台頭しつつあった。利休は秀吉の弟の秀長と連携しながら政権内での地位を依然として保っていたが、その秀長が天正19年(1591年)1月に死去すると利休は政権内での孤立を深める。

秀長の死から20日ほどたった2月13日、利休は秀吉の命令で堺に追放されて蟄居を命じられる。そしてその半月後、京都の利休屋敷において切腹を命じられた。享年70。

死の前日、利休は遺偈を遺しているが、その際に「70年もの長い人生を過ごしたが、法を会得するのは容易なことではない」と述べており、切腹に対する利休の無念を感じさせるものである。

なお、信長の前の天下人である三好長慶と同じ年齢で、将軍足利義晴と世代が近い。

切腹の理由[編集]

秀吉が利休に切腹を命じた理由は諸説があり、現在においても定説を見ていない。

  • 大徳寺山門上に利休の木像を設置したこと。なお、大徳寺山門は参拝時に秀吉も下を通るため、秀吉を踏む形になる。
  • 高価な茶器を不当な価格で売買していたこと。
  • 利休にお吟という美貌の娘がおり、秀吉が彼女を側室に迎えようとしたが拒絶されたこと。
  • 石田三成が政権内で孤立を深めていた利休を一気に失脚に追い込むために讒言したこと。
  • 利休は茶人として高い自尊心を持っており、成り上がりの秀吉とどこか相容れないことがあった可能性。

千利休は切腹しているのか[編集]

前では千利休は切腹したという説が有力だが、最近では追放されただけで済み九州に流されたという説が有力である。現在の宮崎県細川忠興に匿われ隠居した。さらに忠興は、千利休を態々波止場まで見送りにきた事まで明らかになっている。「利休の茶を飲んで、楽しく飯も進んだ」と書かれる資料もある為、近年有力説の一環とされる。

辞世の句[編集]

「利休めは、とかく冥加の、ものぞかし、菅丞相に、なるとぞ思へば」[2]

なお、この辞世を利休が詠んだ日、京都は雹交じりの激しい雷雨に襲われたという。

千利休を題材にした作品[編集]

時代小説
映画
テレビドラマ
漫画
音楽

参考文献[編集]

  • 『南方録』

脚注[編集]

  1. 元々は10日間の予定であったが、演出役である利休に嫉妬したものと考えられる
  2. 南方録』に記録されている辞世である。現代語訳として「私、利休は誠に幸せ者である。菅原道真のように怨霊になって秀吉に復讐できるし、その上に人々に崇敬されるのだから」と訳される。なお、辞世の句の「利休め」には利休の凄まじい怒りと悲憤が伺える。

外部リンク[編集]