三菱百式司令部偵察機

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三菱百式司令部偵察機 (みつびしひゃくしきしれいぶていさつき)は、三菱重工業が設計、開発した偵察機である。

概要[編集]

三菱九七式司令部偵察機の後継として登場した双発、複座の大日本帝国陸軍の偵察機である。長大な航続力と高速によって敵地深く進入して飛行場の戦略偵察を行った。

開発に至った背景[編集]

三菱九七式司令部偵察機はその目的のとおり、長大な航続力と高速によって敵地深く進入して飛行場の戦略偵察を行ったが、戦闘機の性能向上は留まることがなく、正式採用された時には時代遅れのものとなった。そこで大日本帝国陸軍はさらなる性能向上を求めて新鋭機の開発を決定した。

性能[編集]

大日本帝国陸軍の軍用機としてはじめて主脚、尾脚を引き込んだ際にカバーを閉じる仕組みを取り入れて空気抵抗を小さくした。これ以前の機体にはカバーはなかった。最高速度は600km/hを越えるよう要望されていたが、達成できず、後年、エンジン出力の向上と機体構造の変化によって達成された。

工場疎開[編集]

1944年12月7日東南海地震によって三菱重工名古屋製作所は大きな被害を受け、さらに同月、追い打ちをかけるようにアメリカ合衆国陸軍ボーイングB29爆撃機の空襲もあり、陸軍百式司令部偵察機は富山県に工場を疎開させて生産を続けることになった。1945年1月1日富山県射水郡大門町にあった呉羽紡績の工場で部品の主組み立てを行い、部品は呉羽紡績の福野工場、呉羽航空機の井波工場、石川県金沢市大和百貨店で生産した。大門工場は、翼や胴体の80%を組み立てた。福野工場は中島飛行機の部品工場でもあり、三菱重工業と中島飛行機が競合していた。金沢工場は地階から6階まで工作機械が据え付けられた。 1945年4月2日には井波工場が呉羽紡績の機体組み立て工場に再編された。ここで完成した機体は一旦解体されて貨車に乗せられて各務原の飛行場に送られた。隧道やカーブの多い高山本線ではそのまま運ぶことができなかったからである。 さらに日本本土空襲が激しくなるなか、雄神村の山腹に地下工場を建設することになり、月産40機のノルマを課せられ、16本のトンネルを完成させた。愛知県一宮市から勤労奉仕に来た旧制中学校5年生の生徒は故郷に勤務内容について詳細な手紙を送っている。その中で、食堂が騒がしいこと、風呂のお湯が垢がいっぱい浮いていたこと、風呂の脱衣場がシラミの媒介になっていたこと、高岡駅から大門工場まで列車の接続がうまくいかず、歩いて一時間かかって部品を運んだことが記されている。

参考文献[編集]