2000年の三宅島噴火

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2000年の噴火で泥流に埋もれた椎取神社の鳥居。埋没した社殿の屋根も奥に見える。
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2000年の三宅島噴火(みやけじまふんか)は、2000年8月伊豆諸島三宅島の雄山で発生した火山噴火である[1]マグマ水蒸気噴火であり、噴石が山麓まで、火砕流が海岸まで達し、多量の火山ガスが発生。4年半余りの全島避難となった。気象庁はこの火山現象を「平成12年三宅島噴火」と命名した[2]

概要[編集]

6月26日18時30分過ぎから三宅島直下で激しい群発地震が始まった(地震の詳細は「伊豆諸島北部群発地震」を参照)。この活動は1983年の噴火直前と酷似しているとして、19時33分に気象庁は噴火の恐れが高いと判断し「緊急火山情報」を出した。翌27日朝までに坪田・三池・阿古・伊ヶ谷地区の住民が島の北部に避難したが、群発地震の震源は島の北西の海底へ移動。6月27日9時頃に島の阿古地区の西方沖約1kmで海面変色が海上保安庁により確認されるにとどまった。

地震活動は沈静化することなく、三宅島西方海域から西北西に移動し、神津島近海に達する。7月1日16:00過ぎ、一連の群発地震で最大となるM6.5の地震が神津島近海で発生、神津島では震度6弱を記録し、死者1人、負傷者15人を出した。

噴火の関心は神津島近海海底に集まるが海底噴火は沈静化し、一方で7月に入ると雄山火口直下の地震が7月4日から再び活発化した。7月8日18時41分に雄山で小規模な水蒸気爆発が発生、灰色の少量の噴煙が島の東側に流れ、赤色の火山灰が降下した。この噴火で雄山の山頂が陥没して直径約800mの巨大な陥没火口(カルデラ)ができていることが翌7月9日朝になってから確認された。これは三宅島でおよそ2,500年前の八丁原カルデラ以来のカルデラ形成となった。その後も陥没は進み、カルデラは直径1.6km、カルデラ縁からの深さは500mにも達した。7月14日15日には再び水蒸気爆発が起こり、島内に大量の火山灰が降下した。

8月10日の朝6時30分頃、山頂の陥没口からついにマグマ水蒸気爆発とみられる噴火が発生、黒色の噴煙は上空6,000m以上に達した。その後の爆発は激しさを増してゆき、8月18日の大規模噴火では噴石を伴う噴煙が上空15,000mに達し、小規模な火砕サージ、水蒸気が上空に達したことによる局地的な驟雨も発生し火山弾は住宅地にも落下した。8月29日早朝の午前5時過ぎの大規模噴火では低温の火砕流が発生して火口の北北東にある神着地区、美茂井地区などを流下して海岸に達した。この低温火砕流に住民が数名飲み込まれたが、低温のため死傷者は出なかった。この時の火砕流の様子を島民の女性がリアルタイムでインターネットの掲示板[3](千葉達郎氏の掲示板「ある火山学者のひとりごと」への書き込み)に書き込んでおり、話題となった。火砕流内の温度は40℃程度だったと見られている。この噴火では6時過ぎに反対側の南西方向にある村営牧場にも火砕流が到達し、更に雨による泥流も頻発した。

小規模な噴火はその後も断続的に発生する。この間の噴出物の総量は約1,100万m3と推定されており、御蔵島だけでなく100km以上離れている八丈島でも降灰が確認されている。

火山の噴火活動は18日のものをピークに収束していくが、カルデラに大きな火道が開いたことにより今度は大量の火山ガスの放出という噴気活動が始まった。8月中旬から三宅島から離れた関東地方でも刺激臭がするという報告が入るようになるが、9月に入ってからはさらに二酸化硫黄の放出が増加し、東京都は住民の全島避難を決定した(後述)。火山ガスの放出は多い日で1日あたり5万トンにも達した。この火山ガスの放出量は世界でも類を見ない。

火山ガスの放出は2004年7月20日に観測されたのを最後1日あたり1万トンを下まわるようになり[4]、翌年2月には全島避難が解除された(後述)。しかしその後も火山ガスの放出は継続し、2011年の半ばになってほぼ1日あたり1000トンを下回った。2013年1月22日を最後に噴火活動は認められていない[5]。ガスの放出も2016年夏以降は1日あたり数十トン以下の状態が続いている[4]

噴火と島民[編集]

8月18日の噴石の到来と29日の火砕流発生により島民から、すぐにもの島外避難の要望が村議会や都庁にも多く寄せられていたが、当時の都知事石原慎太郎火山噴火予知連との間で避難開始判断を譲り合う場面を多くのマスコミが報道した。2000年9月2日から全島民が島外へ避難を開始した。天皇皇后両陛下は恒例だった9月の葉山御用邸での静養を取りやめた。避難が長期化した避難指示期間中の2004年度には、NHKが島の1,280世帯、2,303万4,000円分のNHK受信料を免除した[6]

日本においては人為的に発生する二酸化硫黄の量が、1日あたり約3,000トンとされるが、観測結果からこれを目安に2005年2月1日15:00を以て、全島避難指示から4年5ヶ月におよぶ一部を除き避難指示が解除された。5月1日から観光客の受け入れが再開され、2006年3月には天皇美智子皇后が島民の慰労に訪れた。避難が長期間にわたったため、生活基盤を三宅島外の伊豆諸島、東京都、本州島内などに移した人々も多く、住民基本台帳によれば2007年1月時点での人口は約3,800人となっていた。2010年現在では約3,000名が帰島している。

数mの火山灰が積もったままだった雄山中腹の公共牧野付近も2011年には山頂周辺を除いて立ち入りと居住の制限が解除された。2015年2月1日、帰島10周年を迎えた。6月5日、気象庁の噴火警戒レベルが1になり火口周辺も含め立ち入り規制が解除された[5]

伊豆半島デタッチメント仮説[編集]

東京大学地震研究所の瀬野徹三は、この噴火活動に先立ち神津島沖で地震を伴って発生したマグマの移動(「神津-三宅の岩脈貫入事件」とよばれる)を、本州列島に衝突する伊豆半島を乗せたプレートが、ストレスにより新たにせん断が発生し、これが南側に断層として現れて大規模な貫入が起きたとする「伊豆半島デタッチメント仮説」を説いている[7]。実際に2000年7月時点で噴火で噴出した質量(およそ300万トン)よりもカルデラ形成を引き起こした地下の質量欠損が非常に大きかった(およそ7億トン)と考えられており[8]、大規模なマグマ移動が起きたことを示唆している。

脚注[編集]

参考文献[編集]