黒船

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太平の 眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず

黒船 (くろふね) とは16世紀以降、日本に来港したヨーロッパの大型の帆船である。船体を腐食や海生動物の付着防止のためコールタールを塗って黒くなっていたのでこのような名前になった。しかし、狭義の「黒船」とは1853年浦賀沖に現れたアメリカ合衆国海軍の4隻の軍艦を指す。以下の記述はこの1853年と、翌1854年に来港したアメリカ合衆国の軍艦について記述する。

来航[編集]

嘉永六年六月三日 (西洋暦1853年7月8日) 、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の軍艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「プリマス」「サラトガ」の4隻が、江戸湾の入口である浦賀沖に姿を現した。

概要[編集]

「サスケハナ」は外輪式の蒸気フリゲート[1]で、満載排水量3824トンだった。「ミシシッピ」は「サスケハナ」よりやや小さい満載排水量3220トンだった。「プリマス」と「サラトガ」は帆装スループ[2]であった。蒸気船といってもこの時のサスケハナ以下の黒船は蒸気機関の効率が悪く、蒸気機関は港湾でしか使わずに外洋では帆を使う機帆船に過ぎなかった。また、ペリー来航の年に起きたクリミア戦争では外輪が砲撃されて航行不能に陥るなど、外輪船は時代遅れのとなってしまった。

徳川幕府の対応[編集]

時代遅れの蒸気船とはいえ、圧倒的な武力を見せつけられた幕府首脳は連日会議を開いたが打つ手はなかった。深刻な事態として、消費都市である江戸は物資のほとんどを内航海運で賄っており、黒船が居座り続けていると物資が江戸に入らなくなってしまうのである。徳川幕府は翌年に返事をすると回答すると黒船は退去したが、どう回答するかで紛糾した。翌1854年に黒船が再び来航し、結局日米和親条約の締結に至った。ペリーの砲艦外交の勝利だった。しかし、徳川幕府としても、従来の薪水給与に関する慣例を文書化したに過ぎないものであり、通商に関しても断ることができたので一定の譲歩をアメリカ合衆国側に突きつけた形になった。

後世への影響[編集]

外圧によって開国に至り、その後、国内での動乱が発生し、徳川幕府は滅びた。また、大船建造の禁が解かれ、徳川幕府、諸国は軍艦の購入、建造を行い、海軍を設立した。

比喩[編集]

外圧や、日本国内で日本人を圧倒するプロスポーツ選手、特にアメリカ人をいう。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 現在の巡洋艦に該当する軍艦で、索敵船団護衛通商破壊沿岸警備に使われる。
  2. フリゲートの次にランクされ、2、3本のマストを備えた軍艦。