金山揚水

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金山揚水(かなやまようすい)は、愛知県豊田市駒新町金山にあった灌漑施設。

地理[編集]

主に豊田市を流れる逢妻男川と逢妻女川は、豊田市・刈谷市知立市の3自治体の境界付近で合流して逢妻川となる。合流部は標高5メートルほどであるが、合流部の北側にある金山地区は標高15メートルほどあり、水が乏しかったため農業に適した土地とは言えなかった。この合流部付近で川をせき止め、蒸気機関による揚水機を設置して金山地区を灌漑したのである。矢作川を水源として碧海郡高岡町などを灌漑した枝下用水の灌漑区域のすぐ西側にある。

歴史[編集]

札幌農学校出身で愛知県立農林学校の教頭だった内藤乾蔵(初代組合長)、碧海郡赤松村の元村長で1909年に碧海郡富士松村大字逢見(現・刈谷市一里山町伐払)に移住した都築重治郎(第2代組合長)らが揚水の構想の中心となった。碧海郡富士松村大字逢見(現・刈谷市)と碧海郡高岡村大字駒場(現・豊田市)の有志が協力し、さらには碧海郡知立町大字知立(現・知立市)の有志も加わった。1911年(明治44年)6月に耕地整理組合が設立され、同年末に揚水場の建設を起工、1912年(明治45年)7月に完工して通水式を挙行した。総館外面積は278町7反6歩だった。

1915年(大正4年)には、富士松村大字東境、高岡村大字中田、富士松村大字逢見字今岡と字今川も組合に参加している。毎日4トンの石炭を燃やして揚水を行ったため、金山揚水機関場には21メートルの煙突が2本そびえており、揚水機関場内には石炭ガラの山があった。石炭価格の高騰により、1919年(大正8年)には蒸気機関から電動ポンプに移行している。1922年(大正11年)と1924年(大正13年)のこの地域は深刻な干ばつだったが、金山揚水のおかげで被害を最小限に抑えられた。

長らく逢妻男川のみから取水していたが、1948年(昭和23年)には逢妻女川の占有権も取得し、水を潤沢に使用できるようになった。金山揚水耕地整理組合は1947年(昭和22年)に金山揚水普 通水利組合に、1951年(昭和26年)に金山揚水土地改良区に移行している。高度経済成長期には逢妻男川の水質が目に見えて悪化したため、愛知用水への水源の転換を図ることとなった。1973年(昭和48年)5月には愛知用水が通水し、金山揚水の設備は役目を終えた。

金山揚水の通水から100周年を迎えた2012年(平成24年)には、豊田市近代の産業とくらし発見館が企画展「待望の水、水路を走る 竣工100周年を迎える近代化遺産・金山揚水」を行った。また同年には地元有志によって金山揚水の説明看板が設置された。逢妻男川と逢妻女川の合流地点の北側にはこんもりとした林が残っているが、この場所には「金山揚水」と刻まれた煉瓦造りの題額がおかれている。南側斜面には100年前に築かれた鉄管受台や鉄管が残っており、煉瓦造りの鉄管受台横の石垣は人造石の工法で造られている。

参考文献[編集]

  • 「金山揚水」『写真アルバム 豊田市の今昔』樹林舎、176-178頁

外部リンク[編集]