萩の乱

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萩の乱(はぎのらん)とは、明治9年(1876年10月山口県萩(旧長州藩)で前原一誠らによって起こされた反乱である。

概要[編集]

明治3年(1870年)に兵部大輔であった前原一誠は長州藩の脱退騒動の処分をめぐって木戸孝允と対立して辞職し、山口に帰国した。帰国後の前原は不平士族に仰がれる存在になった。

そのため、明治7年(1874年)に江藤新平佐賀の乱を起こすと不平士族らが前原を擁して挙兵を勧めたが、前原は拒否してこれを抑えた。

しかし明治9年(1876年)10月24日にかねてから気脈を通じていた熊本県の敬神党(神風連)によって神風連の乱が、さらに10月27日福岡県秋月の士族の宮崎車之助らによって秋月の乱が起こると、10月28日に前原も萩の明倫館で同士200名余と共に挙兵し、官金を奪い各地に檄を飛ばして周辺の不平士族に対しても決起するように促した。前原は県庁を襲撃しようとしたが、広島鎮台の兵士が出動したという報告を受けると山陽道から船で脱出を図ったが失敗し、やむなく萩に戻って広島県鎮台司令長官である三浦梧楼が率いる鎮台兵と戦ったが敗れて逃走する。

11月5日、前原は島根県宇竜港で逮捕され、12月3日に前原をはじめとした主要幹部8名が後に萩で斬首された。

関連項目[編集]