総寧寺

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総寧寺(そうねいじ)とは、千葉県市川市国府台3-10-1に存在する寺院である。宗派は曹洞宗。山号は安国山。

略歴[編集]

南北朝時代弘和3年/永徳3年(1383年)、六角氏康近江国坂田郡番場において通幻を開山として建立したのが開基である。

戦国時代天正3年(1575年)、小田原城主の北条氏政は、下総国関宿領に総寧寺を移建した。江戸時代前期の寛文3年(1663年)に現在の寺地に移された。江戸時代には183石の所領を約束した朱印を与えられ、徳川将軍家の帰依も厚く受け、毎年正月の16日には住職が将軍の下に伺候することが慣習とされていた。江戸時代はそのため、大いに寺院が繁栄して7000余の末寺を有し、10万石以上の大名と同じ格式を与えられるという厚遇ぶりであった。しかし明治維新により江戸幕府が倒れると、寺領は全て明治政府に上地することになりやや衰退したが、現在も末寺を45寺も有する曹洞禅の名刹である。

堂宇は本堂・庫裏・山門・鐘楼などを備え、他に道鏡の分骨堂といわれる法王塚、夜泣石が存在する。また境内の一隅に、高さ4メートル余りの五輪石塔が2基存在するが、これは安土桃山時代文禄2年(1593年)に小笠原諸島を発見した小笠原貞頼の墓と伝えられている。

夜泣石とは[編集]

夜泣石とは、戦国時代の天文7年(1538年)に北条氏康里見義堯が第1次国府台合戦で戦った際、里見軍の武将である里見弘次が戦死した。弘次には愛娘がおり、娘も父を愛していたのだが、父がこの合戦で戦死したことを知るとこの石に顔を伏せ、昼夜と無く泣き続けて衰弱し、そのまま息絶えたと伝えられている。以来、夜になるとこの石から泣き声が聞こえるようになったという伝説があり、そのため夜泣石と呼ばれているのである。

アクセス[編集]