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(ぜん)とは、精神文化のひとつであり、行動原理・行動原則のひとつ。数学研究者には禅的な人が多い。

概要[編集]

「究極の悟り」なんていうものはなく、悟っても悟っても次がある。「じゃあ、我々はなんのためにこんなことをやっているのか?」というのが禅である。
鈴木大拙と西田幾多郎が思想化・理論化し、そこから世界的に広まったため、「日本が本場」みたいなことになっている。しかし、日本において整理されたというだけの話であり、とくに本場といえる地域や国家などはない。
キーワードとしては、「純粋体験」と「没入」(イマージョン)がある。「解っているのか解っていないのかも解らないこと」を、無視するデモなく遠ざけるでもなく、自分の一部として抱えつづけるというのが「禅的生活」であり、そのために、「(自分自身にとって)未知な環境に自分を投げこむ」のが没入である。このとき、「暴れると溺れる」ので、リラックスしてその環境に身をゆだねると、溺れることなく状況が「悟れる」というのが禅である。数学者の広中平祐は、「日本人はそういうのに向いているらしい」とインタビューにおいて述べていたという。かつて広中が在学中に「SSS(スリーエス。「新数学者集団」)」を結成したさいにバイブルとされたのが遠山啓の『無限と連続』(岩波文庫に入っている)であり、遠山もバリバリの解析数学のテクニシャンであったが「数学的理解に至る過程」に興味を持って「水道方式」の先駆者となった。アンドレ・ヴァイユが「こっち(解析数学の分野)には戻ってこないのか?」と遠山に問うて、「最近は数学的理解に至る過程に興味があるので教育に力を入れている」と答えたらヴァイユが「確かに教育は重要だ」と首肯したという。
「理屈っぽいんだけど理屈じゃない」「まず飛びこめ」「そうしたら、『どうしたら溺れずにすむか』は身体が考えるように人間はできている」という態度であり、それを地で行ったのがスティーブ・ジョブスである。その点、スティーブ・ウォズニアックは素で禅なので、ジョブスのように禅に傾倒することはなかったらしい。
京都は「石を投げれば坊主か京大生に当たる」と云われた土地であり、数学科に入ると「なぜ比叡山には霞がかからないか?」という考案が先輩から出され、「我々の先輩がぜんぶ喰っちゃったからです」と答えるというお約束があり、「数学者は食えない商売だ」と悟ると森毅がどこかに書いていた。

余談[編集]

鈴木大拙の『禅の研究』は名著だが、出版に際して表紙に誤植があって「褌の研究」となっていたことに誰も気づかなかったので、「看脚下」と悟ったという話があった。
なぜか武道と結びつけられやすく、嵩山少林寺は禅宗であり、映画『カラテ・キッド』では主人公(女の子)が禅寺で修行するシークエンスで、禅坊主がダンスを踊ったりボーリングをしたりといった場面がある。おそらくはオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』の影響だと思われる。

その他[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 鈴木大拙『禅の研究』
  • 西田幾多郎『善の研究』
  • オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』

外部サイト[編集]

脚注[編集]