犬養毅

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犬養 毅(いぬかい つよし、安政2年4月20日1855年6月4日) - 昭和7年(1932年5月15日)は、日本政治家位階正二位勲等勲一等通称仙次郎木堂子遠

中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第1331代)、逓信大臣(第2729代)、内閣総理大臣第29代)、外務大臣第45代)、内務大臣第50代)などを歴任した。5.15事件で暗殺された首相として知られている。

生涯[編集]

幕末・明治期[編集]

幕末期に備中庭瀬藩庄屋であった犬養源左衛門の次男として生まれる。

明治8年(1875年)に東京上京し、3月慶応義塾に入学する。明治13年(1881年)に退学した。慶応義塾時代の犬養は、成績優秀で勉学に特に励んでおり、英語漢学を得意としていたが、一方で数学簿記などは苦手で本人にも関心は無かったとされ、このため卒業が長引いたとされている。後年の犬養自身の記録では「得意だった読書の成績で矢田績に負けたことで、甚だしく自尊心を傷つけられたので慶応義塾をやめた」としている。なお、在学中の明治10年(1877年)に『郵便報知新聞』の記者として西南戦争に従軍するなど、ジャーナリストとして活動を発揮し、退学後にはその影響もあって豊川良平と『東海経済新報』を創刊することになる。

明治14年(1881年)に統計院権少書記官として明治政府に出仕するが、同年に明治十四年の政変が勃発したため下野した。明治15年(1882年)に結成された立憲改進党に入党し、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員選挙では岡山三区から出馬して当選を果たした。以後、同じ慶応義塾出身の尾崎行雄と共に「憲政神様」と称されるようになる。

明治31年(1898年)に隈板内閣第1次大隈重信内閣)において、文相に就任する。

大正期[編集]

大正時代に入ると、明治時代以来続いていた藩閥政治と称される寡頭政治に対する反発が国民の間でも広まりだした。大正2年(1913年)に成立していた桂太郎内閣はたびたび大正天皇詔勅を楯にして議会の停会などを図ったので国民の不満は爆発寸前に達していた。このような事態の中で犬養毅は第1次護憲運動の指導者として尾崎行雄と共に参画し、結果として同年に大正政変が発生して桂太郎内閣は内閣総辞職することを余儀なくされた。

関東大震災後に誕生した第2次山本権兵衛内閣において、文相と逓信相を兼任する。

大正13年(1924年)に清浦圭吾内閣が誕生するが、この内閣も超然内閣として国民から不満を買い、髙橋是清加藤高明らと共に第2次護憲運動を展開して清浦圭吾内閣を総辞職に追い込み、加藤高明を首班とする護憲三派内閣を成立させる。この際に逓信相に就任し、さらに大正14年(1925年)には自らが率いる革新倶楽部立憲政友会に合流させたあと、政界を引退した。

昭和期と最期[編集]

昭和4年(1929年)に立憲政友会の総裁に選出される。この年に大阪福澤諭吉の生誕地記念碑が建立された際、犬養は自ら「福沢先生誕生地」の碑文を記している。そして昭和6年(1931年)に浜口雄幸テロリストにより重傷を負って体調不良に陥り、それにより内閣総辞職したため、後継の内閣総理大臣に就任した。慶応義塾出身者としては初となる総理大臣に就任したことになる。

犬養の時代には満州事変から発生した中国東北部での一連の騒乱、それに満州国の建国問題と外交問題が山積しており、犬養自身は孫文と親しい親中派であったこともあり、満州国建国には反対していた。このため陸軍、特に一部の急進派からは大いに恨まれていた。ただし、軍部が急速に力をつけることになる大義名分となる統帥権の干犯という言葉を国会で発言して追求しだしたのは、ほかならぬ犬養毅である。犬養は北一輝からこの大義名分を手に入れて浜口雄幸を責め、軍部の強硬派がこれに食いついて軍部の暴走を許す結果となった。

昭和7年(1932年)5月9日、犬養は慶応義塾創立75周年記念式典に内閣総理大臣として出席し、社中の末席に列して祝辞を述べている。

だが、そのわずか6日後の5月15日、犬養は総理大臣公邸に滞在していたところを海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団に襲撃される(5.15事件)。当日、犬養は医師から診断を受けており「どこも異常なし。あと100年は生きられそうだ」などと周囲に語っていたという。そこを将校らに襲撃され、犬養は将校に対して「まあ待て。撃つのはいつでもできる。あちらに行こう」と言って座敷まで行くと「靴くらい脱いだらどうだ」と言い、さらに「話せばわかる」と言うと、将校は「問答無用!」と言って犬養を銃撃した。弾丸は犬養に当たったが犬養は即死せず、逃げ去った将校に対して「もう一度、私を撃った男を連れて来い。話して聞かせてやる」と苦しそうに言ったという。

犬養は関係者によってすぐに病院に運ばれて治療を受けたが、次第に衰弱して同日の深夜に息を引き取ったという。76歳没。犬養の死は第2次護憲運動から開始されていた政党内閣の終焉であり、以後戦前に政党内閣が復活することは2度と無く、日本は戦争への道をひた走ってゆくことになる。

家族[編集]

  • 妻:千代
  • 妾:斎藤仙(せん) - 元烏森芸者[1]
  • 長女:芳沢操
  • 女婿:芳澤謙吉 - 外交官。
  • 長男:犬養彰 - 仙の子。継母(毅の後妻)とそりが合わず廃嫡。彰の長男に犬養正男がいる。
  • 三男(次男という説もある):犬養健 - 仙の子。政治家、小説家。兄彰の廃嫡後、嗣子となる。妻・仲子は長與稱吉の次女。
  • 孫(健の長女):犬養道子 - 評論家
  • 孫(健の次女):安藤和津 - エッセイスト奥田瑛二夫人。健の愛人だった柳橋の芸者との間に生まれ、その後、子として認知された。
  • 孫(健の長男):犬養康彦 - 共同通信社社長。犬養智子と学生結婚後夫婦でアメリカ留学。智子とともにイリノイ大学社会学修士号取得。
  • 曾孫:緒方貞子 - 日本政府アフガニスタン支援特別代表、元国連難民高等弁務官。母は、芳沢謙吉・操夫妻の長女・恒子。父は、外交官の中村豊一
  • 曾孫:犬養千春 - 学習院卒業。叔母犬養道子に大きく影響を受ける。現Pro Light Japan代表。
  • 曾孫:犬養亜美 - 学習院卒。エッセイスト。
  • 曾孫:安藤桃子 - 映画監督。
  • 曾孫:安藤サクラ - 女優。夫は俳優柄本佑(俳優の柄本明の長男)。
  • 従兄弟:小松原慶太郎-実業家。倉敷紡績所、倉敷銀行(現・中国銀行)などを設立。

犬養毅が登場する作品[編集]

映画
テレビドラマ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  1. 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「犬養毅」の章