杜畿

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杜 畿(と き、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家武将伯侯(はくこう)[1]。子は杜恕杜理杜寛。孫は杜預

生涯[編集]

京兆郡杜陵県(現在の陝西省西安市)の出身[1]傅玄の『傅子』によると、前漢杜延年の子孫だという。

継母に苛められたが、孝行者として知られていた。20歳の時に郡の功曹となり、鄭県の令を代行。後に漢中府のとなるが、戦乱を避けるために辞職して[1]荊州へと避難した。建安年間に入って帰郷していたところを曹操の重臣・荀彧に推挙されて曹操の家臣となり、司空司直・護羌校尉・西平太守へと昇進。

高幹の反乱では、荀彧の推薦により河東郡太守に任命され、内通していた衛固范先を策略を用いて分断するなど、鎮圧に貢献する[1][2]。以後、16年間河東郡太守として治績を残した。楽詳を文学祭酒に任じ、自らも教鞭を執るなど教育にも努め、河東からは多くの儒学者が出たという[2]

220年に曹操が死去すると中央に招聘されて尚書に任命される[1]文帝にも仕え、皇帝の乗る船の建造などを担当したが、試走させていた際に強風で船が転覆したため死去した[1]。享年62[1]

三国志演義』には登場しない[1]

逸話[編集]

  • 荊州からの帰途、盗賊に出くわしたが杜畿だけは逃げなかった。矢を射かける盗賊に「財を持たぬ自分を脅しても無駄だ」と説き、難を逃れた。荀彧は杜畿の度胸と変幻自在の対応を誉め、河東太守に推している。
  • 京兆尹の張時は河東の人で、荊州から帰った旧知の杜畿を功曹に任命した。しかし、細かい事を気にしない杜畿の仕事振りに、配慮が足りないとこぼすことがあった。これを聞いた杜畿は、「功曹には相応しくなくとも、河東の太守には相応しいぞ」とつぶやいた。後に河東の太守になった杜畿と再会して、張時は「昨日の功曹が今は郡の太守とは」と嘆息したという。
  • 河東への赴任途中、密かに高幹らと結託していた衛固・范先は前太守を引き留める名目で黄河の渡しを断ち切ったため、先へ進めなくなった。曹操は討伐に夏侯惇を派遣したが、杜畿は「大軍で向かえば戦になるが、私一人なら太守として受け入れるだろう。内に入れば計略を巡らし、ひと月で力を削ぐ」と言い、軍の到着を待たず、迂回して河東へと入った。范先は杜畿を殺して威勢を示すべきだと言ったが、衛固は杜畿と昔なじみで内心馬鹿にしていたので、様子を見ようと考えた。杜畿は威嚇に動じず、彼らをおだて、役職に就けて軍を預け、政務も合議制とした。信任を得ると、言葉巧みに徴兵を思いとどまらせ、資金を浪費させ、集まった軍を分断したため、いよいよ高幹らが河東に侵入した時、衛固・范先は即座に呼応できなかった。また、乱の平定後、その残党は赦免したという。
  • 韓遂・馬超が反乱を起こすと、関中の多くの県邑が呼応したが、杜畿の治める河東から応じるものはなかった。曹操の関中征伐の兵糧はすべて河東から出したが、なお備蓄は潤沢だった。また、兵糧の運搬に駆り出された住民は、杜畿のために率先して働き、逃げ出す者はなかったという。
  • 平虜将軍の劉勲は、曹操の重用を嵩に幅を利かせていた。ある時、杜畿に大きな棗を要求したことがあったが、杜畿はやんわりと断った。劉勲の失脚後、そのことを知った曹操は、杜畿の権力に媚びない姿勢を誉め、手本とするよう州郡に通達した。
  • 杜畿は、太僕の李恢・東安太守の郭智と親交があった。李恢の子・李豊は才能があり顔も広く有名であり、一方の郭智の子・郭沖は見た目が悪かったので評判にならなかった。二人と会見した杜畿は、「李豊は一族を潰すが、郭沖は父の業績を継ぐだろう」と評したが、人々は信じなかった。後に、李豊は嘉平の変で夏侯玄に連座して三族誅殺され、郭沖は太守に昇って父の後を継いだ。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 小出『三国志武将事典』P225
  2. a b 陳寿 『正史三国志』 杜畿伝

参考文献[編集]